「じゃ、行ってくるわよ」

「ねぇ、本当に大丈夫?」

 玄関で靴を履いているアタシに、心配そうな顔をしながらミサトは車のキーを差し出した。

「アタシ、アンタよりはるかに安全運転よ?」

「そうじゃなくて、私が行かなくても大丈夫?」

 そう言って、チラッとアカリに目を向ける。

「アカリのこと? 大丈夫よ。シンジもいるし」

「でもまだトイレとか油断すると大変なことになるわよ」

「大丈夫よ。着替えもちゃんと持ったもの。ミサトも心配性ね」

「本当に大丈夫?」

「大丈夫だって。ねー、アカリ」

 シンジに手を引かれて先に玄関の外へ出たアカリに向かって声をかけると、アカリはシンジの手をしっかりと握ったまま、アタシの真似をして「ねー」とニッコリ微笑んだ。

「大丈夫ですよ。ミサトさん。今日一日はあーちゃんを僕たちにまかせて、ミサトさんもたまにはのんびりしてください。
 あっ、あーちゃん、ちょっと待って!」

 アカリに引っ張られるように玄関を後にするシンジを見て、ミサトはようやく覚悟を決めたらしい。

「う〜ん、そうねぇ。それじゃあお言葉に甘えて、今日一日アカリをお任せしようかしら」

「そうしなさいって」

「じゃあ、悪いけどアカリのことお願いね。困ったことがあったらすぐに電話するのよ」

「もぅ、本当に心配性なんだから。じゃ、行ってくるわよ」

「いってらっしゃい」

 アタシはアカリの着替えやおやつの入ったトートバッグを右肩にかけると、エレベータを待つシンジとアカリの元へ急いだ。

「あーたん、はやく!」

「はいはい。お待たせ〜」

 すでに到着したエレベーターの中からアカリが慌てて手招きする。
 シンジが開閉ボタンを押しているから、慌てなくてもアタシを置いてドアが閉まることはないのだけど、アカリは「しまっちゃう、しまっちゃう」と驚くほどアタフタして。

「あーたん、まにあってよかったねぇ」

 アタシがエレベーターに乗り込むと、アカりはそれはもう真剣な顔で大きく息を吐き出した。
 そんなアカリの様子にアタシとシンジは思わず顔を見合わせ、肩を竦めてクスリと笑ってしまう。
 子供って、ホント面白い。




 マンションのエントランスを抜けると、アタシたちの頭上に太陽の光がキラキラと降り注いだ。アタシは空を見上げて、その眩しい太陽を遮るように手を翳す。

「アスカ〜」
「あーた〜ん」

 仲良く手を繋いで駐車場へ向かう二人が、アタシを振り返って大きく手招きしている。


 これは夢ではないのだろうか。
 あそこでアタシを呼ぶのはアタシの可愛い姪と、アタシの……忘れられない人。
 アタシにとって、かけがえのない人たち。アタシの大好きな人たち。
 アタシにこんな時間が訪れるなんて……

 あの二人を見ていると、自然と笑みが溢れてくる。とても穏やかで、温かい気持ち。
 今この瞬間のこの気持ちを、アタシは何て表したらいいんだろう。

 簡単なことなのに。自分の気持ちを言葉にするだけのことなのに。それなのに、今のアタシはそれを表す言葉を見つけられないでいる。
 ううん、見つけられないんじゃない。知らないんだ。

 アタシ、こういうの初めてだから。こんな気持ちになったの、初めてだから。だからこの気持ちを何て表現していいのかわからないんだ。

 いつかわかるときが来るのかしら。この気持ちを表現する言葉を知るときが、アタシにも訪れるのかしら……

「そんなに急がなくても、動物園は逃げないわよ〜」

 アタシは初めて感じる不思議で奇妙な感覚を胸に秘めたまま、二人の下へ駆け寄った。





「アスカ、車のキー貸して」

 アカリを後部座席のチャイルドシートに乗せ終えたシンジが、アタシに向かって手を差し出した。

「えっ?」

 アタシは自分が運転するつもりだったから、ちょっと驚いてシンジを見る。

「シンジが運転するの?」

「うん。そうだけど」

「そうだけどって……アンタ夜勤明けなんでしょ? 昨夜寝てないんじゃないの?」

「うん。そうだけど、全然眠くないから大丈夫だよ」

「本当に? アタシ嫌よ。アンタと心中なんて」

「もう、信用ないなぁ。本当に大丈夫だから。ほら、アスカも早く乗って」

 それだけ言うと、アタシの手からすばやくキーを取って、運転席に乗り込んだ。

 何よ、偉そうに。疲れてるくせに無理しちゃって。
 本当にバカね。無理しないで、動物園に着くまで寝てればいいのに。

 それでも、珍しく有無を言わせぬ態度のシンジに、アタシはなんとなくそれ以上の反論が出来なくて、仕方なくアカリの隣りの席に乗り込んだ。

 当たり前なんだけど、車を運転するシンジを見るのは初めてで。
 斜め後ろから見る横顔も、ハンドルを握る少しゴツゴツした手も、相変わらず形の良い後頭部も、バックミラー越しに見える昔と変わらないその瞳も、すごく……その、なんて言うか……カッコイイ。

 今、どんな顔してるんだろう? シンジは今、どんな気持ちでいるんだろう?

 アタシは覗き込むように、少しだけ首を傾げた。

「あーたん、なんでシンちゃんのことみてるの?」

「えっ!?」

 突然の鋭い指摘に、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。

「な、何言ってんのよ、アカリ。べ、べ、別にアタシはシンジのことなんか見てないわよっ」

 こんなに慌てたら、アカリの指摘が図星だってことシンジにばれちゃう。

「なあに、アスカ?」

「べ、別に何でもないわよっ。ちょっとそこの建物が気になったから見てただけじゃないっ。アカリったら、ヘンなこと言わないでよね!」

「なんだぁ。そうなんだぁ。アスカは外の建物を見てたのかぁ」

 そう言うと、シンジは正面を向いたままクスクスと肩を揺らした。

「な、何よっ。悪い?」

「別に〜」

 もぉぉぉぉっ。シンジのくせにアタシをからかうなんて!
アタシもアタシよっ。こんなことにも冷静に対応できないなんて!

 恥ずかしさを隠すように、アタシはプイッと大げさに顔を背けた。



***



 平日の動物園は実に閑散としていて、人影まばらだ。
 園内の人の数より明らかに動物の数の方が多く、動物を見に来たはずのアタシたちが、動物に観察されているような気さえしてしまう。

 動物園のゲートを潜ったアカリはとても興奮した様子になって、それまでギュッと握りしめていたシンジの手を突然振り解いた。

「おサルさん〜」

 アカリはこの動物園を何度か訪れたことがあるらしく、勝手知ったる様子で、ゲートからいちばん近い所にいる猿たちの柵に向かって駆けて行く。

「あ、あーちゃん、ちょっと待って。手繋いで歩こうよお」

 急に手を振り解かれたシンジは、一瞬、驚きにも悲しみにも似た複雑な表情をして、急いでアカリの後を追った。

 シンジったら、好きな女性にフラれたみたいな顔してる。

 シンジのその慌てっぷりがなんだか可笑しくて。なんだか可愛くて。アタシはあからさまにニヤニヤしながら二人の後を追いかけ、再びシンジと肩を並べた。

「ねぇ」

「ん? なあに?」

「アンタ子供の頃、動物園来たことある?」

 答えなんか聞かなくてもわかりそうなことを、わざわざ口にしてしまった理由はなんだろう。シンジに問い掛けているようで、実は自分自身に言っているのかもしれない。

「うーん……覚えてないや」

 アタシの唐突な質問に、シンジは表情ひとつ変えず、ボソッと小さくつぶやいた。
 その目は、アカリの小さな手を優しく握りしめている自分の手に向けられている。

「ふーん。アタシと同じね」

 アタシも前を向いたまま、同じように小さくつぶやいた。

 そう。アタシと同じなんだ。
 ママがいた頃の記憶は遥か遠く、きっとあるはずの楽しかった思い出は、あまりにも曖昧で、アタシの中には薄いモヤ程度にしか残っていない。
 大好きだったママと、どこに行って、何をして。そんなことは、少しも思い出せない。

 アタシの中に残っている鮮明な記憶は、ママがいなくなってからの、暗く長いトンネルをさまよっていた様な、そんな日々の出来事ばかり。

 シンジもアタシも、似た者同士だってこと、今になってやっとわかった。

 あの頃、あんなにシンジに辛く当たったのも、あんなにシンジを憎んだのも、きっとシンジがアタシに似ていたから。
 外見でもなく、性格でもない、もっと心の深いところにある何かが、アタシと良く似ていたから。

 だからアタシはシンジに惹かれ、そして憎んだ。何年経っても、どんなに離れていても、忘れられないほどに。

 これがアタシたちの運命なら、逃れることのできない宿命なら、その結末はどうか、ささやかでもいいから幸せなものでありますように。

 アタシはチラッとシンジの横顔を見上げると、少し足を早めてシンジと手を繋いでいるアカリの横に回り込み、アカリの空いている方の手をギュッと握りしめた。

「さぁ、アカリ。次は象さん見に行こうか」

「ぞうさん、みる〜」

 そう言ってはしゃぐアカリを見て、アタシとシンジはまた顔を見合わせて笑った。




 動物園をリクエストとしたアカリはもちろんのこと、こういう場所に普段全くと言っていいほど縁のないアタシとシンジも、この日一日を心から楽しんだ。

 園内は森林公園のように広くたくさんの木々が茂る。その木々の間から吹くそよ風は実に爽やかで心地好い。風がひと吹きする度、天然パーマのアカリの髪の毛がふわっと揺れた。

「あーたん、こっちよ」
「シンちゃんとおててつなぐ!」

 アカリの発する一言一言が、アタシたちを笑顔にしてくれる。アカリの笑顔が、アタシたちの世界を一瞬で色鮮やかなものに塗り替えてくれる。
 いつもの色のないモノクロの世界とは全く別の、色鮮やかな生きた世界に。

 アカリが可愛くて、愛しくて。アタシとシンジのそんな共通した想いが、さらにアタシを夢見心地にさせてくれた。

 だから今日のアタシは時計なんかほとんど見なかった。楽しくて楽しくて、時間なんか気にならなかったから。

 気の向くままに園内のカフェでアイスクリームを食べたり、お土産物屋さんを何軒も覗いたり。アカリがもう一度象さんを見たいと言えば、今まで歩いて来た道をやれやれと引き返したり。

 シンジはと言えば、一日中、まるで孫を可愛がるおじいちゃんみたいにアカリにデレデレだった。

 もともと優しい性格だとは思っていたけど、ここまで子煩悩だったとは驚きだ。きっといいパパになるに違いない。

 アカリを肩車して歩くシンジの後ろ姿を眺めているだけで、なんとも言えない温かい気持ち包まれる。これが夢なのか現実なのか、それさえもわからなくなるくらい、アタシにとっては幸せな光景だから。想像さえできなかった未来を、一瞬でも夢見ることができるから。

 ふとミサトの言葉を思い出した。

「シンちゃんも結婚しないって言ってるのよ」

 今日一日のシンジの様子を見て、誰がそれを信じるだろうか。それがシンジの本心でないことは誰の目にも明らかだ。

 きっとミサトは何度も見てきたに違いない。アカリが生まれてから今日までの間、シンジのそんな姿を何度も何度も。
 そしてその度その言葉に胸を痛め、そんな状況に追い込んだ自分を責め、どうか幸せになってほしいと願ってきたのだろう。

 アタシにはミサトの気持ちが痛いほどわかる。そして、アタシたちに対するミサトの想いの深さにも、アタシは気づいてしまった。

 表にこそ出さないが、ミサトも過去の闇に囚われた被害者のひとりなのだ。アタシと同じように、シンジと同じように、赦される術すらわからずに苦しんでいるのだ。

 だからと言って、今のアタシに何ができるというのか。何をしてあげられるというのか。

 前を歩くシンジの後ろ姿とその肩に乗る小さな背中に向かって、声を出さずにそっと問いかける。


 ねぇ、アタシはどうしたらいい……?


 うっすらとオレンジ色に滲み始めた空を見上げ、アタシは静かに目を閉じた。



***



 動物園の出口付近まで来ると、大きなぬいぐるみがたくさんディスプレイされたお土産物屋さんが目に入った。

 そのお店は動物園最後の砦といった佇まいで、園内の小さなショップとは比較するのも憚られるほど立派な店構えをしている。
 動物園のオリジナルグッズやお菓子やぬいぐるみが、ショーウインドウ一面に綺麗に整列していた。

 中でもぬいぐるみは、ガラス越しに見てもその柔らかさが伝わるような愛らしさだ。もちろん動物園らしくリアルな動物の置物も並んでいたけど、フワフワした毛を纏ったぬいぐるみたちの方が断然魅力的に見えた。

「アカリ、このお店でアスカちゃんが大きなぬいぐるみを買ってあげるわ」

 そう言いながら、アタシはシンジの肩に乗るアカリを見上げる。

 明日ドイツへ帰ったら次はいつアカリに会えるかわからない。だから今日という日を忘れないように、思い出に残る何かをプレゼントしようと決めていた。アカリには、いつまでも自分のことを覚えていて欲しいから。

 さあ行きましょう、とアカリに向かって手を伸ばしかけたそのとき、シンジがひょいとアカリを肩から下ろして自分の腕に抱え直した。

「あーちゃん。僕もあーちゃんにぬいぐるみ買ってあげるよ。このくらい大きいの」

 そう言うと、ジンジは左腕にアカリを抱えたまま、右手を横に大きく広げて見せた。

 もう、本当にバカなんだから。

「アンタねぇ、ぬいぐるみばかり何個も買ったってしょうがないでしょ? あんまり甘やかすと、ミサトに怒られるわよ」

「そうだけど……」

 アタシの当然の指摘にかなりショックを受けたらしいシンジは、あからさまにションボリと肩を落として見せた。
 まったく、叔父バカもここまで来ると重症だ。

 声を出さなくても「ダメ?」と言っているのがわかる子犬のような目で、アタシに許可を求めている。
 それでもアタシはそれに全く気づいていないフリをして、少しだけ冷たく言い放った。

「今回はアタシが買うわ。シンジはいつでもアカリに会えるんだから、またプレゼントしてあげればいいじゃない」

 そう。アタシは明日いなくなるの。

「アタシは明日ドイツへ帰っちゃうんだから」

 ねぇ、アンタはちゃんとわかってる?

 アタシは、シンジが絶対に反論できなくなるであろう台詞ばかりをワザと選んで並べ立てた。そうしてアタシがいなくなる事実を突き付けたかったのだ。もう二度と会えないかもしれないという現実を。

 そんなことをしたって、シンジが寂しいって言ってくれるわけじゃないのに。ドイツに帰るなって言ってくれるわけじゃないのに。そんなことわかってるのに……

 でもその成果なのか。シンジはそれ以上一切の反論もせず、子犬のような目で訴えることもせず、ただほんの少しだけ寂しそうな顔をして、コクンと小さく頷いた。



「ねぇ、ねぇ、アカリ。この象さんかわいいわよ。あっ、こっちのクマさんもフワフワ〜」

 お店に入るとアタシとアカリはお互いの手をとって、ぬいぐるみたちの下へ駆け寄った。
 そんな様子を、シンジは黙ってニコニコと眺めている。

 アタシがぬいぐるみではしゃぐなんて、意外?
 そうね。柄じゃないわね。でもアタシだって曲がりなりにも女の子。人並みにかわいいものは好きなのだ。もちろんぬいぐるみも例外ではない。

 小さな頃は、ママからもらったサルのぬいぐるみを大切にしてたっけ。出かけるときも、寝るときも、いつも一緒だった。
 あの頃のアタシは本当に幸せで、ママが大好きだった。

 このお店にも、サルのぬいぐるみが置いてある。真ん丸の目をした、なかなか愛嬌のある顔をしている。アタシは斜め前の棚に並んでいるサルのぬいぐるみをひとつ手にとると、なんとなくその顔を眺めた。

 アカリはちょうどあの頃のアタシと同じ歳くらいか。アタシは手に持ったサルのぬいぐるみと、隣りでぬいぐるみを選んでいるアカリを見比べて、思わずクスッと笑う。
 アタシにもこんなにかわいい時があったのかしら。

 アカリはぬいぐるみを腕に抱えて、パッとアタシを振り向いた。どうやら気に入った物が見つかったらしい。

「アカリ、これがいい」

 目をキラキラさせながら、小さな腕にしっかりと抱えていたのは、アカリの背丈ほどありそうな大きなクマのぬいぐるみだった。

「あら? アカリは大好きな象さんじゃなくていいの?」

「アカリはこれがいいの」

「そ。じゃ、それに決めましょ」

 アカリの選んだそれは、アカリの身体と同じくらい大きなもので、つぶらな瞳が毛に埋もれてしまいそうなほどフワフワしたキャラメル色のクマだった。
 
 アタシは手に持っていたサルのぬいぐるみを棚に戻し、かわりに大きなクマのぬいぐるみを受け取る。そしてそのクマをギュッと抱きしめ、レジに向かった。さっきまでぬいぐるみを抱き抱えていたアカリの甘い香りが、ほのかに残っているような気がした。

「お願いします」

「ご自宅用ですか? プレゼント用にお包みしますか?」

 店員の決まり文句に、アタシは軽く首を横に振る。

「このまま持って歩きたいので、値札を外してもらえますか?」

「はい。かしこまりました」

 待ってましたとばかりに店員はすばやくバーコードを読み取ると、盗難防止用のタグを外し、値札を切るためのハサミに手を伸ばした。



「はい、アカリ。クマさんどうぞ」

「あーたん、ありがと〜」

 店の外に出てぬいぐるみを受け取ったアカリは、腕をいっぱいに広げて大きなクマに抱き着き頬をすりすりと寄せた。

 とてもかわいい光景だけど、アカリが抱えて歩くにはそのクマは少々大きすぎる。
 アタシはアカリに代わって片腕にぬいぐるみを抱え、もう一方の手でアカリの手を取った。

 そういえば、シンジは……

 辺りを見回すが、シンジが見当たらない。さっきまでアタシたちの近くにいたのに。

 まったくもう、どこに行っちゃたのかしら?

 辺りは益々青みを増し、オレンジ色だった空は藤色に取って代わられようとしている。


「アカリ、シンジはどこに行ったか知ってる?」

「シンちゃん、いないね」

 アカリは横に首を振ると、辺りをキョロキョロ見回した。

「じゃあ、電話してみようか」

 アタシは携帯を取り出そうとバッグを探った。大きなクマを抱えたままでは些か不自由で、なかなか取り出せない。すると、背中から聞き覚えのある声がした。

「ごめん、遅くなって」

 振り返ると、シンジがちょうどお店から出てきたところだった。

「もう、どこにいたのよ?」

 明らかにムッとしているアタシを見て、シンジはバツの悪そうな顔をする。

「うん、ちょっとね」

 言葉少なにそれだけ言い、ササッとアカリの隣りに回ってアカリの手をとった。
 その不自然な動きになんとなくシンジを観察すると、後ろ手にこっそりと袋をぶら下げている。あれはさっきのお店の袋。アタシに怒られながらも我慢できずに、内緒でアカリへのプレゼントを買ってきたに違いない。

 あまりの叔父バカっぶりに呆れ、アタシは見てみないフリを決めた。



***



 赤信号で停車しているわずかな時間を使って、バックミラーから後部座席を覗く。アカリとシンジは頭を寄せ合う様にして、眠っていた。

 日の落ちかけたこの時間は一日で最も慌ただしい時間であるはずなのに、車中は別次元のようにしんと静まり返っている。時折聞こえるアカリとシンジの寝息が妙に心地好い。

 もしかしたら今日という日は、可哀相なアタシに神様がくれた休日だったのかもしれない。それとも、ずっと一人で生きてきたアタシへのご褒美だったのかな。

 すべては夢ではなかったのか? 今でもまだ実感が持てないでいる。それでもアカリが抱き抱えている大きなクマのぬいぐるみが、今日という日が現実であったことを証明してくれていた。

「よく眠ってる」

 二人の寝顔に微笑むと、アタシはハンドルを握り直した。

 帰りはアタシが運転するからと、シンジから強引にキーを奪い運転席に乗り込んだ。こうでもしなきゃ、シンジは帰りも自分が運転すると言い張っただろう。

 夜勤明けで本当は疲れているはずなのに、シンジはそんなこと噫にも出さず、終始笑顔を絶やさなかった。

 それだけアカリが可愛いってことね。今日一日のシンジの様子を見て、それは呆れるほどよくわかったもの。

 でももしかして、もしかしたら……そんなんこと考えるなんて許される立場じゃないことは十分わかってる。わかってるけど、でも今だけは夢を見てもいい?
 今日のシンジの笑顔のほんの一瞬だけは、確かにアタシのものだったって。アタシに微笑んでくれたんだって。
 そう信じてもいい?

 自分で自分の考えがおかしくて、クスクスと笑った。

 ……そんなこと、あるわけないか。

 シンジには今まで散々ひどいことをしておきながら、今更何を期待してるんだろう。

 自分の図々しさに呆れ、思わず声を漏らしてまた肩を揺らした。

「ん? アスカ?」

「あ、ごめん。起こしちゃった? ミサトの家までもう少しあるから、まだ寝てていいわよ」

「うん。ありがとう」

 アタシの笑い声にシンジは寝ぼけたような声で返事をし、またすぐ眠りについた。

 やっぱり疲れてたんじゃない。無理しちゃって、バカね。本当にバカなんだから。

 でも……

 シンジはそのままでいてね。ずっと変わらないでいて。アタシの知ってる、バカシンジのままでいてね。



***



「おかえりなさい」

「ただいま〜」

 アタシたちの姿が見えるよりも早く、ミサトは玄関の前でアタシたちを待っていた。マンションのエントランスから鳴らしたチャイムを受けた後、アカリの帰りを待ち切れずに外に飛び出してきたのだろう。
 ミサトはまだ少し距離の離れたアタシたちに向かって大きく手を振っていた。

「大変だったでしょう? シンちゃんもアスカもお疲れ様」

「そんなことないわよ。ねー」

「ねー」

 声を合わせて答えるアタシとアカリの姿に、シンジはまた頬を緩ませる。

「それにしても、そうやって歩いていると、あなたたち本当の親子に見えるわね〜」

 アカリを真ん中に三人で手を繋いで歩いて来たアタシたちを見て、ミサトが大袈裟にニヤニヤして見せた。

「ミサト、何言って……!」

 いつもの習慣で咄嗟に口からそう出かかったんだけど、チラッと見上げたシンジはちょっと照れたように頭をかいて笑ってる。

 何よ、それ。なんで否定しないのよ。笑ってないで、ちゃんと否定してよ。そうじゃないとアタシ……アタシ勘違いしちゃうじゃない。

 赤くなりかけた頬を隠すようにアタシはフイッと視線を反らした。

「さあ、入って。動物園はどうだった?」

 ミサトはアカリを抱き上げながら、数時間ぶりに再会した娘の頬に小さなキスを落とす。
 さっきまでアタシたちの手の中にいたアカリも、アタシたちのことなど忘れてしまったかのように、ミサトにしがみついている。

 現実に帰ってきた。これが現実なんだ。アカリはミサトの元に帰り、アタシは明日日本を離れる。そしてみんな日常に戻るんだ。

 みんなそれぞれ仕事をして、子育てをして、そうしてまたひとりで生きていく。

「ご飯にしましょう」

 ミサトの声に我に返った。
 そう。今日という日はまだ終わっていない。今日までは、ここには、みんながいる。

「シンちゃんの分も用意してあるから、食べてって」

 アカリを抱えたまま、ミサトはアタシたちを振り返った。

 これが本当に本当の最後だ。今日の出来事をしっかりと胸に刻み付けておこう。これから先アタシがひとりになっても、今日という日の思い出だけで生きて行けるように、目に焼き付けておこう。

 そう覚悟を持って足を踏み出した時だった。

「ミサトさん」

「なぁに、シンちゃん?」

「僕、今日は帰ります」

 その時は、アタシが思っていたよりもずっと早く訪れた。

「シンちゃん、まさか私の料理を食べたくないって言うんじゃないでしょうねぇ?」

 そうじゃないことはミサトもわかってるくせに、わざとらしくシンジに詰め寄る。

「違いますよ。明日も仕事だから少しは寝ておかないと」

「そう。それじゃあ引き止める訳にもいかないわね。今日は助かったわ。シンちゃん、ありがとう」

「僕も楽しかったから、気にしないでください」

 突然のことに、アタシは二人の会話を黙って聞いていることしかできなかった。こんなに呆気なく別れの時が来るなんて。もう、会えなくなるなんて。

「あーちゃん、また遊ぼうね」

「シンちゃん、かえるの?」

 シンジは名残惜しそうにアカリの小さな手をとる。

「うん。ごめんね。でも明日もお仕事だから帰らなくちゃいけないんだ。また遊びに来るからね」

 そう言って優しい笑顔でアカリの頭を撫でると、シンジはミサトに向き直った。

「それじゃあ、僕……」

「シンちゃん、今日は本当にありがとう。ゆっくり出来るときにまたいらっしゃい」

「はい。あーちゃん、またね」

「シンちゃん、ばいばい」

 アタシは? アタシには別れの挨拶はないの?
 ミサトとアカリには、また会えるじゃない。いつでも会えるじゃない。アタシは明日ドイツへ帰っちゃうのに。

 あまりにも平然と何事もないように立ち去ろうとするシンジに、アタシは怒りを覚えた。もちろんそれがアタシの勝手だということは、十分にわかっている。

 でも淡い期待を抱いてしまっているアタシは、信じたくなかった。
 アタシとの別れを少しも悲しんでくれないシンジを、別れの挨拶すらしてくれないシンジを、アタシは認めたくなかった。
 冗談でもいいから「さみしい」って言って欲しかった。

 涙がこぼれそうだった。
 アタシはフイッと顔をそらし、無言のままひとりで玄関に飛び込んだ。

 また意地を張ってしまった。もうシンジには会えなくなるというのに。別れの挨拶をする機会は今しかないのに。
 これじゃあ10年前と同じ。また同じ過ちを繰り返してる。

 アタシ、本当に馬鹿だ。

 玄関の扉の向こう側では、ミサトたちの楽しそうな声が聞こえる。
 アタシはその声から逃げ出すように、自分の部屋に飛び込んだ。



「アスカ〜」

 ミサトの声が聞こえた。ベッドに突っ伏しているアタシには、その声は小さく聞こえる。

「アスカ〜」

 またミサトがアタシを呼んだ。
 そっか。食事するんだったわね。

「アスカ〜、ちょっといらっしゃい」

「今着替えてるから、ちょっと待って」

 部屋に入るなりベッドに突っ伏したアタシが着替えをしているわけないのだけど、シンジに挨拶もせず、ひとりでプイッと部屋に帰ってきてしまったことが後ろめたかったせいか、咄嗟にそう嘘をついた。

「待ってるから、早くいらっしゃい」

 アカリがお腹空いちゃったのかな。
 アタシは急いで部屋着に着替えると、何事もなかったように部屋を出る。

「手を洗ってくるから」

「手なんかあとでいいから、早くいらっしゃい」

 玄関からミサトが大きく手招きしていた。

「なによ?」

「いいから早く」

 何をそんなに急いでいるのかわからないけど、ミサトは楽しそうな笑みを浮かべ、内緒話をするように右手を口元に当てた。

「シンジくんが待ってるわよ」

「え?」

「シンちゃん、アスカに話があるんだって」

「何……」

 戸惑うアタシをよそに、ミサトはアタシに擦り寄る。

「二人で内緒話なんて、怪しい〜」

「馬鹿言ってると、殴るわよ」

 はしゃぐミサトをキッと睨みつけた。でもミサトったら全然意に介さない様子で、アタシの背中を押す。

「待たせたらかわいそうよ。早く行ってあげなさい」

「でも、アタシこんな格好……」

「どんな格好をしていても、アスカは可愛いいわ。さあ、いってらっしゃい」

 そう言うとミサトは勢いよく玄関の扉を開け、そのままアタシを外に追い出した。

「あ……」

 外廊下の手すりにもたれるようにして、シンジがこちらを見ていた。
 Tシャツと短パン姿で放り出されたアタシはなんとなく居心地が悪くて、真っすぐシンジの顔を見ることができない。
 視線を合わせようとしないアタシを怒っていると勘違いしたのか、シンジが慌てて駆け寄ってきた。

「あ、ごめん。急に呼び出したりして……」

 また謝ってる。アンタは何も悪くないのに。別れの挨拶もせず黙って部屋に帰ったのはアタシなんだから。

「いいわよ、別に。それで、話って何?」

「うん、あの……」

「何よ?」

 本当に自分が嫌になる。なんでこんな言い方しかできないんだろう。もう会えないと思っていたシンジともう一度話しができて、本当は嬉しいくせに。なんで素直にそう言えないんだろう。

 10年経っても、何も変わっていない。アタシはあの頃と同じ、子供のままだ。

「あの、実はこれ」

 おずおずとシンジが袋を差し出した。

「あ……これ……」

 動物園でアタシに隠れてこっそり買っていた、アカリへのプレゼント。
 自分が直接渡すと甘やかしすぎだってミサトに怒られるから、帰った後にアカリに渡せってことね。

「アタシがあんなに言ったのに、やっぱり買ってきたのね。まったく……わかったわよ。後でアカリに渡せばいいんでしょ?」

 しぶしぶ手を伸ばしたアタシを見て、シンジが目を丸くした。

「違うよ」

「何が違うのよ?」

「これはあーちゃんにあげるプレゼントじゃないよ」

「えっ?」

「アスカにだよ」

「……え?」

 驚いて声も出なかった。ただ呆然として、シンジの顔を見上げる。

「はいっ」

 袋を持つ手をグイッと突き出されて、思わず手を出して受け取った。

「あ、ありがと……」

「開けてみて」

「う、うん」

 アタシはまるで自分の意思をなくしてしまったみたい。シンジに言われるがまま、勝手に手が動いて袋の中のものを取り出した。

 モコモコして、茶色くて……

「これ……」

「アスカが気に入ってたみたいだから」

 それは動物園で見つけた、あのサルのぬいぐるみだった。

「…………」

「あ……嫌だったかな?」

 嫌じゃない。嫌なわけない。シンジにプレゼントをもらうなんて、たぶんこれが初めて。それだけでも嬉しいのに、シンジがちゃんとアタシを見てくれていたことが何より嬉しい。

 アタシはサルのぬいぐるみを見つめたまま、首を小さく横に振った。

「嫌じゃない……」

「僕、アスカが日本にいる間、何もしてあげられなかったから。荷物になっちゃうから悪いと思ったんだけど、ドイツに帰っても今日のこと思い出してもらえたら嬉しいなって」

 シンジは少し照れたように顔をそらし、小さく笑った。

「…………」

「あ、ごめん。こんな物で」

 アタシが俯いたままだから、また怒ってると思ったのかな。全然そんなことないのに。こんなに嬉しいのに。

 シンジにそう思わせてしまうのは、アタシのせいね。アタシが散々シンジに辛く当たってきたせい。昔のアタシがしたことに、今のアタシが苦しめられるなんて、あの頃は思ってもみなかった。

「まったく、ぬいぐるみだなんて子供じゃないんだから」

 自分の想いとは真逆の言葉がアタシの口を突いて出た。こんなときまで憎まれ口を叩く自分に、本当に腹が立つ。

「そうだよね。ぬいぐるみだなんて子供っぽかったよね」

 至極申し訳なさそうな顔をするシンジに胸が痛んだ。

 本当はすごく嬉しいのに。とても気に入ったのに。いつだってそう。アタシの口は嘘つきだ。

「まあ、せっかくシンジがプレゼントしてくれるって言うんだから、ありがたくもらっておくわ」

 黙れ、アタシ。こんなアタシ、もうイヤだ。

 アタシはこんなに酷いことばかり言ってるのに、なぜかシンジは笑っている。

「ありがとう」

 とても嬉しそうに笑っていた。

 なんで笑ってるの? なんでプレゼントした本人がお礼言ってるの? お礼を言わなくちゃいけないのは、アタシじゃない。アンタはなんで笑っていられるの?

「シンジ、明日も仕事なんでしょ?」

「うん」

「早く帰った方がいいんじゃないの?」

「うん。そうだね。そろそろ行くね」

 苦しい。
 お願い。もうアタシから離れて。でないと、アタシどんどん嫌な女になる。自分で自分が止められないから。だからもうアタシから離れて。

 そうか。アタシを苦しめてるのは、いつだってアタシ自身だったんだ。昔からそうだったんだ。アタシはシンジに苦しめられてたんじゃない。アタシ自身に苦しめられてたんだ。

 アンタは何も悪くなかったのに。アンタはアンタのままで良かったのに。

 シンジ……ごめんね。

「アスカ」

 俯いているアタシにそう呼び掛けたシンジの瞳は、微塵もアタシを責めていなかった。

「また日本に帰って来るよね?」

「ええ」

「また会えるよね?」

「ええ」

 シンジは手を伸ばしてアタシが抱えているサルの頭をポンポンと叩き、つぶやいた。

「元気でね」

「ええ」

「じゃあ、行くね」

「ええ」

 顔を上げて微笑んだシンジは、クルッと踵を返し歩き出す。当たり前の顔で手を振り去っていく姿に、不思議と悲しいとも寂しいとも感じなかった。
 明日からまた一人で生きていかなければならないのに、シンジとはもう二度と会えないかもしれないというのに、なぜか実感がなかった。

 アタシはまだ夢から覚めていないのかもしれない。それとも無意識に現実から目を背けているのかな。

 エレベーターに乗り込む後ろ姿に、アタシは小さくつぶやいた。

「さようなら」



 最後の最後まで、アタシはシンジに嘘をついた。




...続く




あとがき

やっと”夢現”をまとめました。遅くなりました。
始めの予定より、どんどんお話が大きく長くなってきてしまい、
軽くめまいを起こしそうですw
時間はかかっていますがちゃんと完結させるので、
気長にお待ちいただけるとうれしいです。
最後までお読みくださって、ありがとうございました。




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