タッタッタッタ

 ドスッ

「うげっ」

 まだ夢の中にいたアタシの上に、突然大きな塊が圧し掛かってきた。

「あーたん、おきて〜」

「う、うぅっ、うっ……」

 重い……
 大きな塊はアタシの上に乗ったまま、さらに頭の方に移動すると、

「あーたん、あさよ〜」

 アタシの耳元で、かわいい目覚まし時計の役割を果たした。

「あとちょっとだけ……」

「ダメよ、あーたん。ママがあーたんをおこしてっていったの」

「ママが……?」

 今日までアタシのことを起こしたりしなかったのに。
 昨夜のミサトとの会話がフッと頭を過ぎった。

「今何時かわかる?」

「じかん? えっとね、もうすぐ『ニコニコいっぱい』はじまるよ」

 アカリの言う『ニコニコいっぱい』っていうのは、アカリが大好きで毎日欠かさずに見ている幼児番組のこと。確か毎朝7時半に始まるのよね。
 そんなに寝坊してるわけでもないのに、なんでわざわざ起こしにくるのかしら?

 まさかデートの相手が決まったとか、そういうこと……?

 でも、そうよ、あれよね。いくらなんでも、こんな早い時間からデートに行けだなんて言わないわよね。

 アタシは一人で無理矢理納得すると、ボーっとしたままアカリに手を引かれてリビングへ向かった。リビングに入ると、キッチンからいい匂いがする。
 こんなに早い時間からミサトが料理をしているなんて。本当、人生何が起こるかわからない。

「おはよう」

 アタシはボサボサの頭をかきながら、キッチンにいるミサトに挨拶する。

「あ、アスカ、おはよう」

「今日は何かあるの? わざわざ起こしにくるなんて」

「あら、何かあって欲しい?」

 フライパンのハムエッグを皿に移しながら、ミサトはわざとらしくニヤニヤした。

「何かって、何よ?」

「昨日の話、本当はアスカもけっこう期待してたんじゃないのぉ?」

「バカ言わないでよっ。そんなことあるわけないでしょ」

「ムキになっちゃて〜」

「違うってば!」

「まぁ、まぁ、落ち着きなさいって。はい、コーヒー」

 ミサトはアタシにコーヒーの入ったカップを手渡すと、自分も手に持っていたカップからコーヒーを啜った。

「とっても言い難いんだけど」

「何よ?」

「私の伝手を総動員してアスカのお婿さん候補、見つけてあげようと思ってたんだけど」

「だから、何よ?」

「期待させちゃってたのに、本当に悪いんだけど」

「別に期待なんかしてないわよ」

「それがね、昨日の今日じゃ、時間に都合の付く人が見つからなかったのよ」

 心底残念そうな顔をして、ミサトはため息をついた。

「だから、そんなことしなくていいって言ってるでしょ」

 全くいい加減にして欲しいわ。あちこちに連絡しまくってただなんて、恥ずかしいったらありゃしない。それじゃあ、アタシが男に困ってるみたいに見えるじゃないの!

「アンタ、まさかアタシのことをペラペラしゃべってるんじゃないでしょうね?」

 コーヒーを啜りながら、上目遣いにミサトを恨めしく見上げる。

「まっさかぁ。さすがの私でも、そのくらいのデリカシーは持ち合わせてるもの。外国から可愛い女の子が遊びに来てるから、よかったらどこか案内してくれないかって、お願いしてるだけよ」

「本当にアタシの名前は出してないんでしょうね?」

「出してない、出してない。神に誓って」

 ミサトはわざとらしく宣誓のポーズを取った。

「アタシの名前出したら、ただじゃおかないんだからっ。それじゃあ、今日は何でわざわざ起こしに来たのよ?」

「ふふふ。フェイントよ、フェイント。相手が決まったと思って、ドキドキしたでしょぉ?」

 ……フ、フェイントですって!?

「うぅぅぅぅっ、ミ〜サ〜ト〜!!」

 詰め寄ったアタシに背を向けて、ミサトはクックックと腹を抱えて笑った。
 あぁん、もう、本当に腹が立つ。不覚にも、ビクビクしてしまった自分が恨めしい。




 結局その日は一日、ミサトが街を案内してくれることになった。
 アタシが日本を離れてから、10年経つのだけど、その年月を実感しても余りあるくらい、街は整備され、自然を取り戻し、人も街も活気に溢れていた。
 今の第三新東京市には、戦場となった面影は微塵もない。

 大きなショッピングセンターに立ち寄り、女3人でウィンドウショッピングを存分に楽しむ。
 アタシがいて、ミサトがいて、アカリがいて。あーでもない、こーでもないと、他愛もない会話をして過ごす日常は、忘れかけていた幸福と安心感をアタシに与えてくれた。
 ひとりでいるときには、感じることの出来なかった感覚。ひとりで生きていくためには邪魔なだけだと、封印してきたその気持ちを、アタシは10年ぶりに思い出してしまった。

 このままずっと日本に残ろうか。

 そんな弱気を打ち消すように、アタシは無理矢理笑顔を作る。

「ねぇ」

「なあに?」

「お土産に日本酒を買いたいんだけど、何かおすすめない?」

「あるある。とびっきりのおいしいのが」

「やっぱりお酒のことならミサトに聞くのがいちばんね」

 ちょっと嫌味っぽく言ったんだけど、ミサトはそんなこと全然意に介さない様子で。

「アスカも大人になったのねぇ。アスカとお酒の話をする日が来るとは思わなかったわ」

「アタシだって、お酒選びをミサトに手伝ってもらう日が来るなんて、夢にも思わなかったわ」

「あら、それ皮肉?」

「分かってるじゃない」

 アタシはニヤッと笑って、ミサトの肩に自分の肩をトンッとぶつけた。

「14歳の頃の可愛かったアスカが懐かしいわ〜」

「29歳の頃の大酒飲みだったミサトは勘弁してほしいわ」

 二人で顔を見合わせてケタケタと笑う。
 こんな小さなことだけど。こんな小さなやり取りだけど。これが今のアタシにできる、精一杯の強がりだった。




 ひとしきり歩き回った後、アタシたち3人はようやく車に乗り込む。

「はぁ。疲れた〜」

「アカリもつかれた〜」

 アカリはこんな風に、今日一日アタシの真似ばかりしている。言うことだけじゃなくて、行動まで真似しようとするから可笑しい。

 売り場のネックレスをアタシが手に取れば、近くのネックレスを同じように手に取り、それを首に当てて鏡を覗けば、アカリも同じように鏡を覗き込んだ。
 アタシがソーダを注文したら、アカリも真似をして同じようにソーダを頼んだのだけれども、それを一口飲んだときの、あの顔が忘れられない。

「うぅっ、シュワシュワする〜っ」

 それはもう驚いた顔で。それはもう可愛い顔で。

 今もまた同じように、アタシがドサッと座席に寄りかかったのを見て、アカリも大げさにチャイルドシートにバンッと寄りかかった。

 クスッ。子供って本当に面白い。

 それからずっと、車の中でも女3人のおしゃべりは止むことはなく、賑やかなままに車はひたすらマンションを目指す。

 ふと窓の外に目をやると、そこにはアタシの知らない建物ばかりで。ずっと昔に時間を過ごしたはずのその街はすっかり姿を変えていて、なんだかよそ者扱いされているような気がした。

 アタシが守った街なのに。アタシたちが命を懸けて守った街なのに。アタシとシンジが……

 すると突然、スッと静かに車が止まった。初めて見る白い大きな建物の前で。

 ここは、どこ?

「どうかしたの?」

 窓越しにその建物を見上げる。

「……ここ。シンちゃんが働いてる病院よ」

 ミサトの言葉に、改めてその大きな白い建物を窓から覗き込んだ。

「シンちゃんいるかなぁ」

 アカリは鼻がつぶれそうなくらい窓に張り付いてる。そのアカリの反応が、ミサトの言葉を裏付ける、何よりの証拠だ。

 そっか。本当にシンジがここで働いてるんだ。ミサトの冗談なんかではなく、ここにシンジがいるんだ。

「アカリはシンちゃん大好きだものね。今日はお仕事中だから会えないけど、また遊びに来てくれるといいわね」

「うん!」

 そんなアカリとミサトの会話をよそに、アタシはその建物をジッと見つめていた。
 それは想像していたよりずっと大きな病院で、シンジはきっと、その中で必死にもがいているに違いなくて。飲み込まれてしまいそうな大きな波の中でも、自分を見失わないように、必死にもがいてるんだ。
 自分の決めた未来を歩くために。ただそれだけのために。

 シンジのくせに……そう思ったら、なんだか泣きそうになった。

「なんで?」

「うん?」

「なんでここに寄ったの?」

 ミサトはゆっくりと振り向く。

「アスカは知っておくべきだと思ったから。シンちゃんもアスカと同じように、今を一生懸命生きてるってことを」

 うん。わかってる。それはアタシにも十分わかってる。

「二人とももう十分頑張ったわ。本当によく頑張った。だからこれからは、自分たちの幸せのためだけに生きなさい。
 あなたたちが抱えているものは、私が全部代わりに引き受けるから。だから、あなたたちは幸せになっていいの。ううん……幸せになりなさい。誰よりも幸せになる権利があるんだから」

「……ミサト、昨日から同じことばっかり言ってる」

「そう?」

「そうよ」

 プイッと顔を逸らせてドアに頬杖を付き、何事もなかったような顔をして反対側の窓を見つめた。
 今のアタシにはそれしかできなかったから。それ以上何か言ったら、泣いてしまいそうだったから。

 ミサトはきっと、アタシのそんな変化に気が付いていたに違いない。しばらくアタシの横顔を見つめていたようだったけど、

「さぁ、帰りましょうか」

 それだけ言って、静かに車を走らせた。

 今改めて知らされたミサトとシンジの想いが、アタシの中でグチャグチャになってる。胸の奥から何かがこみ上げてきて、ギュウッとアタシの胸を締め付ける。

 アタシって、案外弱いのね。

 誰にも気づかれぬよう顔を背けたまま、頬を伝い零れ落ちた一粒の涙を、左手の指先でそっと拭った。



***



 タッタッタッタ

 ドスッ

「うげっ」

 まだ夢の中にいたアタシの上に、突然大きな塊が圧し掛かってきた。

 もう、何なのよぉ〜。

「あーたん、おきて〜」

「あとちょっとだけ〜」

「はやく〜」

「今何時?」

「もう『ニコニコいっぱい』終わっちゃったよ」

「じゃあ8時くらい?」

 そう言いながら枕元に置いてある携帯に手を伸ばした。

 えっと……9時48分……えっ、もう10時? やだっ、寝坊しちゃった。

「やだ、もぅ。アスカちゃん起きたって、ママに言ってきて」

「は〜い」

 アカリはパタパタと足音を立てて、部屋を飛び出した。
 そんなアカリの後姿を見送ってからベッドの端に腰をかけ、部屋をグルッと見回してみる。

 なんだかあっという間だったな。

 アタシは明日ドイツへ帰る。帰ってしまったら、またしばらくの間は日本へは来られないだろう。
 最初からそのつもりだった。ヒカリの結婚式のために日本に戻ってきただけで、日本に長居するつもりもなかったし、結婚式が終わったらすぐにドイツへ帰るつもりだった。
 今だってその予定は変わらないし、変えるつもりもない。

 でも、どうしてかな。この部屋とももうお別れだと思ったら、なんだかちょっとだけ、ほんの少し……寂しい。

 ミサトやアカリと長い時間一緒にいたせいで、昔を思い出してしまったからだろうか。
 大切なひとことを大切な人に伝えられないままでドイツに帰ることが、心残りだからだろうか。

 アタシは徐に手を広げ、両頬をパンパンと叩いて気合を入れると、ヨシッと立ち上がって、みんなのいるリビングへ向かった。

「おはよ〜」

 寝ぼけた声で挨拶しながら、アタシはカチャッとリビングのドアを開けた。

「あ、アスカ、おはよう」

「…………」

 バタンッ

 アタシは大きな音を立てて、開けたばかりのドアを勢い良く閉めた。

 何、今の?

「…………」

 もう一度、そおっと開けてみる。

 カ……チャ……

「あ、アス……」

 バタンッ

 アタシは幻覚を見るほど、日本の生活が恋しくなってしまったのだろうか。心の奥底でドイツに帰りたくないと思っているから、こんな幻影を見るのだろうか。

 ドアの取っ手を握り締めたまま、壁に寄りかかって息を潜めた。
 とっくに正体はバレているのに、見つかったことに気づかない出来の悪い探偵のようになってしまう。

 見間違い……いや、そうじゃない。確かにそこのソファに座ってこちらを振り向いて。

 あれは……シンジ。


「あーたん、はやくぅ」

 ドアの向こうからアカリが呼んでいる。

 わかってる。わかってるわよ。でも、こんな格好でシンジの前に出て行くなんてできない。

 もう10年前とは違うのだ。寝起きのままのボサボサの頭で、こんなだらしない格好で、化粧もしていないこんな顔で、シンジの前に出て行くなんてできない。

 アタシはドアの前にしゃがんで小さくなると、ドアを薄く開けてアカリを呼んだ。

「アカリ、アカリ」

 ささやくような声でアカリを呼ぶ。

「あーたん、なあに?」

 チョコチョコとこちらに向かってきたアカリをさらに手招きして傍まで呼ぶと、

「ちょっとママ呼んできて」

「はーい。ママ〜!」

 そうして薄く開いたドアを静かに閉めた。




「なあに? アスカ」

 わざとらしい笑顔と共にミサトが廊下へ出てきた。

「なあに? じゃ、ないわよっ。アンタ、これ、どういうことよ!?」

「どういうことって?」

「どうしてシンジがここにいるのかって聞いてるのよ!」

「あぁ、それ?」

 アタシからのその質問を待っていましたとばかりに、ニヤッと意地悪な笑みを浮かべる。

「シンちゃん、夜勤明けなんだって〜」

「だ〜か〜ら〜、なんで夜勤明けのシンジがこの家にいるのかって聞いてるのよ!」

「だって、私が呼んだんだもの」

「だから、何で?」

「決まってるじゃない」

 決まってる? 決まってるって……まさか……まさか……

「アスカのデートの相手を見つけるって、言ったでしょ?」

 やっぱり……

 ミサトはしれっとした顔で言い放った。

「だからって、なんでシンジなのよっ。アンタの伝手を総動員して探すんじゃなかったの!?」

「もちろん探したのよ。でも平日の昼間に時間が空いてる人って、なかなか見つからないんだもの。アスカもシンちゃんなら気心知れてるし、日本での最後の一日を過ごすには悪くないでしょ? 最後の一日くらい、どこか連れて行ってもらったら?」

「それはそうかもしれないけど……」

「ねっ。いいじゃない。出かけてきなさいよ」

「うぅ〜」

「ほらほら、とにかく顔くらい洗ってきなさいな。アスカだってお年頃なんだから、いくらシンちゃんと言えども、そんな格好見せられないでしょ」

「うぅ〜」

「ほらほら」

 ミサトに背中を押され、アタシはしぶしぶ部屋に戻った。
 よりによって、デートの相手がシンジだなんて。

 アタシは頭をブンブンと振る。

 デートじゃなくて、観光よ、観光。

 アタシには毎日仕事だからって言ってたくせに、ミサトに呼ばれたらホイホイやって来るなんて……なによ……

 心の中で悪態をついているのに、なのにアタシはベッドの上にありったけの服を並べて、この中から一番素敵な洋服を選ぼうとしてる。

 ち、違うわよ。お出かけだから、ちょっとおしゃれしようかなって思ってるだけで、シンジにかわいいって思われたいとか、別にそんなんじゃないんだからねっ。

 でも、心の中でどんなに否定しようとも、顔がにやけてしまうのを、アタシはどうしても止められなかった。

 およそ15分後、アタシはかつてないほどのスピードで身支度を整え、洗面所の鏡の前に立つ。
 自分の黒髪にスッと指を通してから、鏡の中の青い瞳を覗き込んだ。

 よしっ。

 アタシは気合を入れると、さっきとは別人のように、胸を張ってリビングの戸を開ける。

「おはよう。あら、シンジ、来てたの?」

 何が「来てたの?」だ。さっき顔を合わせてアタフタしたくせに。あまりの馬鹿馬鹿しさに自分でも呆れてしまう。
 それでも、あくまでもアタシは平静を装って、リビングに足を踏み入れた。

「アスカ、おはよう。今日はゆっくりだったんだね」

「ま、まあね」

 ぎこちなくそれだけ言うと、目の端で捉えたキッチンにいるミサトに向かって一直線に歩き出す。

「ミサト、コーヒーちょうだい」

「はいはい」

 ミサトがクスクスと肩を揺らしながらアタシにコーヒーを差し出したので、アタシはちょっとだけ恨めし気にミサトを睨んでから、何食わぬ顔でコーヒーを啜った。

「アスカ、朝食は?」

「もうこんな時間だから、いらないわ」

 自分のせいなんだけど、時計の針はもう10時半を指している。朝食にしても昼食にしても、あまりにも中途半端な時間だ。
 アタシはコーヒーを持ったままリビングへ向かうと、シンジのためにミサトが用意したであろうクッキーを一つ摘んで、シンジの斜め前のソファにドサッと腰を下ろした。

「それで、今日はシンジ、どうしてここにいるわけ?」

「ああ、アスカが退屈そうにしてるから、どこかに連れてってあげてってミサトさんに言われて」

「ミサトに言われて?」

 明らかにムッとした様子のアタシに気づいたシンジは、

「そ、それにアスカは明日ドイツに帰っちゃうって言うし、だから僕もアスカと話がしたいなって思って」

 慌ててこう付け加えると、恐る恐るアタシの顔を覗き込んだ。

 身体は大きくなったくせに、その瞳、全然変わってない。アタシのすべてを見透かされるような、それでいて優しい黒い瞳。

 昔はその顔見ると、本当に腹が立った。
 自分だけ罪がないような顔をして、自分だけ責任がないような顔をして、人にすがってんじゃないわよっ、って。

 でもあの時、本当に腹を立てていたのは、きっとシンジに対してじゃない。
 あれはきっとアタシ自身に対して腹が立っていたんだ。
 シンジに向けていたはずの言葉が、すべて自分に向かって突き刺さってくるような気がして。だからシンジを攻撃することで、それから逃れようとしてたんだ。

 アタシは……アタシの言葉は、どれだけシンジを傷つけてきたんだろう。
 シンジがアタシを見てくれないのは、シンジがアタシを見てくれなかったのは、シンジのせいじゃない。

 アタシのせいだ。

「アスカ?」

「あっ、うん……」

 少しボーっとしてしまっていたらしい。シンジが心配そうにアタシの顔を覗き込んでいる。
 急にアタシが黙ってしまったので、きっと怒っていると思ったんだろう。

 今のアタシは、もう昔のアタシじゃないのに。シンジには同じように見えてるのね。

「そうね。次はいつ会えるかわからないし、いいわ。今日は一日アンタに付き合ってあげる」

 そんなアタシの返答を聞いて、怒っていないことが分かったのか、シンジはひどくホッとした顔でアタシに笑顔を向けた。

「ねえ、アスカはどこか行きたいところないの?」

「行きたいところ……?」

「うん。せっかくだから、僕でよかったら案内するよ」

 またそんな言い方をする。どうして「僕が」って言えないのかしら。
 「僕でよかったら」じゃなくて、アタシは「アンタが」いいのに。

 それでも、どんな理由でも、シンジがアタシを誘ってくれていることが、うれしい。

 こんなとき、素直に嬉しいって言えたら、何か変わるんだろうか。シンジは喜んでくれるんだろうか。アタシたちの何かが、少しでも前に進むんだろうか。

 でも「嬉しい」なんて言うのは、アタシにはあまりにもハードルが高すぎる。それこそ、金づちの人が泳いで海峡を横断しろって言われるのと同じくらい。
 むしろアタシとしては、海峡を横断することの方が楽かもしれない。

 少し踏み出してみようか。何も変わらないかもしれないけど、せめてもの想いで。

「うん……ありがとう」

 今はこれで許して欲しい。
 こんな小さなひと言でも、こんな小さな呟きでも、アタシにとっては大きな第一歩なのだから。

 シンジは目を丸くしてそして大きく顔を歪ませて、すっごく嬉しそうに笑ってる。
 チラッとミサトに目をやると、ミサトもまた驚いたと言わんばかりの顔で大きく頷いた後、意味ありげな視線をアタシに寄越していて。

 そういえば、アタシがシンジに「ありがとう」なんて言ったの、初めてかもしれない。

 二人の視線に居た堪れなくなったアタシは、助けを求めるようにアカリを探したのだけど、アカリはシンジの膝にしがみ付いて、シンジとアタシの顔を交互に見てる。

 何よ、みんな。そんな大げさな反応、しないでよ。

 急に恥ずかしくなって、どうしていいかわからなくなって、でも隠れるところなんかどこにもなくて。
 覚悟を決めてもう一度顔を上げると、そこにはやっぱり、嬉しそうにアタシを見つめているシンジの顔があった。

 もう、いいや。
 シンジがこんなに嬉しそうしてるんなら、みんながどう思っててもいいや。どうせアタシは明日ドイツへ帰っちゃうんだし。

 開き直ったアタシは、正面からシンジを見つめなおした。

「それで、どこに連れて行ってくれるの?」

「あっ、アスカの希望を聞いてからと思ってたんだけど」

「そう言われても、アタシこの辺のこと、よくわからないのよねぇ」

「そうだなぁ。アスカが好きそうな場所は……」

「アカリはどうぶつえんがいい!!」

 突然、アタシたちの会話にアカリが割って入った。

「アカリ、邪魔しちゃだめよ〜。今日はアスカちゃんとシンちゃんの特別なデートの日なんだから」

「な、何言ってんのよ、ミサト!」
「そうですよ、ミサトさん!」

 ミサトの静止も聞かず、アカリはシンジにしがみ付く。

「アカリはシンちゃんとどうぶつえんいくの!」

「アカリは今日はママとお留守番よ」

「いやっ、いくの〜! シンちゃんとあーたんとどうぶつえんいく!!」

「動物園はママとパパと一緒に行けばいいでしょう?」

「シンちゃんとあーたんがいいの〜!!」

「でも、シンちゃんとアスカは動物園に行くなんて言ってないわよ」

「アカリはいくの!!」

 さすがミサトの娘だけあって、一歩も引かない。
 そんな親子のやり取りの最中、アタシとシンジは顔を見合わせてクスリと笑い肩を竦めた。

「いいわ。今日は動物園にしましょ」

「やった〜!!」

 アタシのひと言に、アカリは文字通り飛び上がって喜んだ。

「あーたんもどうぶつえんすき?」

「ええ。好きよ」

「シンちゃんもどうぶつえんすき?」

「うん。好きだよ」

「アカリもすき〜」

 しがみ付いていたシンジの膝から身を翻したアカリは、今度はアタシのお腹にギュッと抱きついた。

「せっかくのデートなのに、動物園だなんて……」

 なぜだかわからないけど、ミサトは一人ガックリと肩を落としている。

「なんでミサトががっかりしてんのよ?」

「だってデートよ、デート。アスカが日本で過ごす最後の日なのよ。それなのに動物園だなんて……」

「あら、いいじゃない。最初から今日はアカリといっぱい遊ぼうと思ってたんだし」

「でも……」

「ね、いいわよね」

 シンジを振り向くと、シンジも笑顔で大きく頷く。

「そうですよ、ミサトさん。僕もあーちゃんに会うの久しぶりだから、いっぱい遊んであげたいと思ってたし」

「あぁ、もう、この子たちったら」

 ミサトは大げさに両腕を広げると、アタシとシンジの頭を抱え込んだ。

「ちょ、ちょっと、ミサト、苦しいわよ」

「み、ミサトさん、そんなにくっつくと……」

「この子たちったら、本当にいい子なんだからっ」

 もぅ、大げさなんだから。苦しいじゃない。

 ミサトの腕から解放されたアタシは、同じように解放されたばかりのシンジをジロッと睨む。

「アンタ今、ミサトに抱きしめられて、良からぬことを考えたでしょ?」

「良からぬことって何だよ?」

「今『そんなにくっつくと』とか言ってたじゃない」

「だから何なんだよ!?」

「ミサトの胸ってやわらか〜い、とか思ってたんでしょ」

「そんなこと思ってないよ!」

「あら、アタシは思ったわよ。女のアタシが思うのに、男のアンタが思わないわけないじゃないっ」

 そう。ママの胸に抱かれるって、こんな感じなのかなって思った。あったかい、って。

「そんなのしょうがないじゃないか!!」

「ふん、やっぱり思ってたんじゃないっ」

「思ってないってば!!」

「ほらほら、アスカもそんなことで妬かないの。早く出かけないと、お昼になっちゃうわよ」

 ミサトはケタケタ笑いながら時計を指差した。

「別に妬いてないわよっ……って、やだ、もうこんな時間じゃない。シンジもアカリも、準備するわよっ」

「は〜い」

 アカリのとてもよいお返事の背後でシンジが何か呟いたようだったけど、アタシはわざと聞かないフリをした。

 だって、シンジが悪いんだもの。

 そんなつもりはないってわかっていても、たとえ相手がミサトであっても、嫌なものは嫌なんだもの。

 シンジが触れるのは、アタシだけにしてほしい。




 ただいま午前10時45分。アタシが日本で過ごす最後の一日。
 きっと大切な思い出になるであろう一日が、今、始まろうとしていた。




...続く




あとがき

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
思うように話が前へ進まず、すごく悩んでいっぱい考えてやっとここまで書きました。
ようやく次話でアスカとシンジがメインのお話になりそうです。
あ、アカリちゃんも忘れずにね。

いつもみなさんの応援に励まされています。本当にありがとう♪




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