タッタッタッタッタッタッタッタッ
ドスッ
ポフッ
「あ〜た〜ん」
ソファに座っているアタシに向かって、小さな女の子が突進してきた。ポフッとアタシのお腹に顔を埋め、スリスリと顔を擦り付ける。小さな身体から感じられる甘い香りとやさしい温もりは、とても愛しい。
アタシは彼女をギュッと抱きしめた。
「あ〜たん、すき〜」
「アタシもアカリのこと、だ〜いすき」
プクプクしたほっぺを人差し指でつつくと、アカリは実にくすぐったそうに身を揺らす。
この子はミサトの一人娘で、名前をアカリという。長い黒髪はちょっぴりクリクリした天然パーマで、まんまるでパッチリとした黒い瞳にプクプクすべすべしたピンクの頬。幼児特有のムチムチした手で、アタシにしっかりとしがみ付いてくる。
そんなアカリはミサトの娘というだけあって、とてもおしゃべりだ。
ただ、先月3歳になったばかりの彼女の言葉の発音は、まだところどころ疑わしい。今もアタシのことを「あーちゃん」と呼んだらしいのだけど、誰が聞いても「あーたん」に聞こえてしまうのがいい例。
尤も、それが返って幼さを感じさせ、より愛しくなるのだけれども。
今回の来日で、アタシは初めてアカリに対面した。
ミサトはアタシに向かって「アスカもついに叔母さんかぁ」なんて笑ってたけど、この歳で叔母さん扱いされるのはちょっと複雑な気分。それでもアタシがアカリの叔母になるということは、アタシたちは家族なんだということを実感として捉えられるような気がして、嬉しかった。
ただ「叔母さん」という呼ばれ方にはどうしても抵抗があったので、アカリには「アスカちゃん」と呼んでもらうことに決めた。
ところが、アカリは一度だってアタシのことを「アスカちゃん」と呼んでくれたことはない。アカリはいつだってアタシのことを「あーちゃん」、否「あーたん」と呼ぶ。
なぜアタシが「あーたん」なのかと聞いたところ、アカリは真剣な顔をしてこう答えた。
「だってあーたんには『あ』がついてるでしょ?」
アカリは自分が「あーちゃん」と呼ばれているから、名前に「あ」が付く人は皆「あーちゃん」でいいと思っているようだ。
なんて単純で明快な発想なんだろう。子供がこんなにも面白い生物だなんて、思わなかった。
アタシは子供好きではなかったけど、アカリは愛しくてたまらない。呼び方なんて今はどうでも良いとさえ思える。大げさに言えば、叔母さんどころかお婆さんでもかまわない。本当に可愛くてたまらないのだ。
こんなに可愛いアカリにどうしてもっと早く会いに来なかったのかと、本当に悔やまれた。血は繋がっていなくとも、アカリは間違いなくアタシの姪なのだから。
アカリはアタシの腕の中で身をよじって顔を上げると、向こうにあるおままごとセットを指差す。
「あーたんはおきゃくさんで、アカリがおうちのひとね。アカリがパーティーするから、あーたんはピンポーンてあそびにくるの。そしたらアカリが"どうぞ"っていうからね」
おままごとのシナリオを一通り説明すると、アカリはパタパタとおもちゃのキッチンまで走り、そうしてパーティーのセッティングを開始した。
ミサトが結婚したのは今から5年前。相手はアタシの知ってる人ではなかった。
つまり、加持さんではなかったということ。
加持さん以外の人であんなぐうたらをもらってくれる人がいたことに、アタシはとても驚いた。余程忍耐強い性格か、もしくは余程の変わり者か。
相手の男性は生物工学の研究者だということだ。たぶんリツコの伝手か何かで知り合ったのだろう。
ミサトが加持さん以外の人と結婚するなんて考えたことなかったから、だから本心を言えば、少し寂しい気がする。
でも仕方がない。加持さんは赤い海から帰って来ないのだから。
それが証明したことは、加持さんはサードインパクトよりずっと前に亡くなっていたということだった。
赤い海から戻れるかどうかは、亡くなった日時に関係あるらしいから。
本当はわかっていたことだけど、でも認めたくなくて認められなかった事実。アタシたち家族が、アタシたち自身が壊れ始めた頃に、加持さんはこの世を去っていたのだ。
みんなと一緒に赤い海から帰ってきてくれたらと、何度思ったことか。でも多くの帰還者を見ても、それが無理であろうことはアタシにもすぐにわかった。
サードインパクトが起こったその日に亡くなった人たちは、死因が何であれ戻ってきているのに、その日以前に亡くなった人たちは一人として帰ってきていなかったから。
リツコは相変わらずの冷静な口調で、それが神が定めた生死の境界線なのだと言い切った。そんなリツコの様子にアタシは少し腹を立てたこともあったけど、でもリツコの言うことはたぶん間違ってないと思う。
アタシたちにはどうすることもできない。きっとそういうことなんだ。
それにしても、神様も冷たいのね。少しくらいサービスしてくれたっていいのに。
碇司令のように自分の意志で戻ってこない人たちの代わりに、アタシたちの大事な人を返してくれたって、罰は当たらないわよ。ねえ、神様。
ミサトが加持さんの死をどう受け止めて、どのように乗り越えようとしているのか。それはアタシには想像もできないことだけど、それでもその悲しみをアタシたちは共有した。加持さんはアタシにとっても、父の存在に代わるかけがえのない人だったから。
悲しみを共有していたからこそ、何事もなかったように振舞うミサトを見ているのが苦しく、ときどきフッと見せる寂しそうな顔に気づくとき、アタシの胸はひどく痛んだ。
そういう部分を知っていたからこそ、ミサトが結婚すると聞いたとき驚きつつも本当に嬉しくて。
アタシは相手の人に心から感謝せずにはいられない。
「あーたん、パーティーのじかんよ」
「はいはい」
アカリの掛け声にアタシはソファーから立ち上がると、用意されたパーティー会場の前で見えない壁をノックする。
「トントン。こんにちは。今日はお招きありがとうございます」
「いらっしゃいませ。こちらがパーティーです。あーたんはとくべつにはいっていいんです」
アカリは分かるような分からないような言葉で、アタシを招き入れた。
「お邪魔しま〜す」
「あーたんはここにすわるのね。そしたらアカリがおりょうりもってきます」
「じゃ、失礼して」
「どうぞ、どうぞ。ごゆっくりしてください」
アタシがカーペットの上に敷かれたレジャーシートに座るのを確認すると、アカリは長い黒髪を揺らしておもちゃのキッチンへと戻って行った。
アタシはミサトの結婚式には帰って来なかった。日本を発ったとき、次に日本へ来るときはひとりで生きる自信がついてからと決めていたから。だからまだ学生であった当時のアタシは、帰って来ることができなかったのだ。
みんなの顔を見たら、また頼りたくなってしまうに決まってる。ひとりが寂しくなってしまうに決まってる。
素直に寂しいって言えば良かったのかな? みんなのいるところに帰ってくれば良かったのかな?
でもアタシはもう、みんなと一緒に笑って暮らすなんてできそうもなかった。
振り向いて欲しくて、もどかしくて。いくら想ってもアタシの想いは届かなくて。目の前にいるのに、触れることさえできない。そんな人と生活を共にしなくてはならないというのは、本当に苦しくて。普通に会話して、普通に微笑むことさえも、アタシにとっては苦痛でしかなくて。
こんな想いを抱えたまま生きていくのなら、アタシはひとりでいい。どんなに願っても受け入れてもらえないのなら、アタシは一人の方がいい。
それが、14歳のアタシがドイツへの帰国を決意した本当の理由だった。
結婚式にも参加しなかったアタシが、アカリのパパ、つまりミサトの結婚相手である花柳さんに挨拶をしたのは、今回来日をしたその日が初めてだった。
彼はアタシが来日するのと入れ替わりにアメリカに出張する予定があり、ゆっくり話をする時間はなかったけれど、ひと目でもお会いすることができて本当に良かったと思う。
メガネをかけていて、細身の長身で、想像以上にとても優しそうな人。少ししか話をする時間はなかったけれど、とても頭の良い人であろうことはすぐにわかった。そして言葉の端々から滲み出る人柄。
この人ならきっとミサトを幸せにしてくれる。そんなことを感じさせてくれる、優しい空気を持った人だった。
彼ならきっと大丈夫。ミサトが少しくらい怠け者でも、少しくらいがさつでも、少しくらい適当でも、少しくらい料理が下手でも、少しくらい掃除ができなくても、少しくらい大酒のみでも、彼ならきっと大丈夫。
そんなことを考えながら、アタシはベランダで洗濯物を干しているミサトの横顔を見つめた。
ミサトがちゃんと洗濯できるようになるとはねぇ。
今回の来日では、驚くことがたくさんあった。
ミサトが結婚できただけでも十分驚きに値するのだけど、その上子育てまでして。アカリはとってもいい子だし、ミサトの子育てはなかなか上手くいっているんじゃないかと思う。おまけにあのミサトが、家事までこなしているとは。
部屋も一通り片付いていて、ゴミの分別までバッチリ。当然のことだけど、洋服だって脱ぎ散らかさずにちゃんと洗濯している。料理もシンジに比べたらまだまだだけど、それでも普通に食べられる程度までは上達していた。
これが結婚するということなのだろうか。
これが母親になるということなのだろうか。
「あーたん、どうぞ」
ふと気づくと、目の前にはおいしそうなお料理の数々が並べられていた。もちろんそれは湯気の立たない、おもちゃのごちそう。
和食も洋食も中華も、おまけにデザートまでごちゃごちゃに並べられたごちそうだけど、それを得意げに並べたアカリは黒い瞳をクリクリさせて、一心にアタシを見つめる。早く食べてと言わんばかりに。
その円らな瞳に見つめられたら、アタシはもうアカリの言いなり。
「いただきま〜す」
アタシはアカリの期待に応えるべく、おもちゃのフォークとナイフを持って、大げさに食べる振りをして見せた。
「もぐもぐ。あぁ、おいしい〜。アカリの作ってくれたお料理、とってもおいしいわよ」
「アカリね、これをおなべにいれてぐつぐつして、そのあとフライパンでやいたらできたの」
「そうなの? じゃあ、こんどアスカちゃんも教えてもらおうかなぁ」
「いいよ。とってもかんたんだから、あーたんにもできるとおもうよ。アカリがおりょうりのせんせいになってあげるからね」
小さな身体を使って一生懸命身振り手振りするアカリに、アタシは頬を緩めずにはいられなかった。
***
「アカリ寝たわよ〜」
「悪かったわね、アスカ。アスカもビールどう?」
アタシがアカリの可愛い寝顔を見届けてリビングに戻ると、ミサトは10年前と変わらないキャミソールに短パンというだらしない格好で、缶ビール片手にソファに寝転がっていた。
「アンタねぇ、結婚したんだから、もう少しマシな格好できないの?」
「あの人はそんな小さなこと気にするような人じゃないもの」
「そうかもしれないけど、歳を考えなさいって言ってんの。歳を」
「あ〜ら、スタイルはまだまだアスカに負けてないと思うわよ」
「でも肌の張りは、間違いなくアタシの勝ちよ」
「くぅぅぅっ、それは認めざるを得ないわ……」
がっくりと肩を落としたミサトに、アタシはフフンと胸を張って見せた。
「ビール一本もらうわよ」
アタシは冷蔵庫から缶ビールを取り出してからソファまでやって来ると、寝転がっているミサトに向かって右手で軽く追い払うような仕草をする。
「ほらほら、ゴロゴロしてないで、ちょっとどきなさいよ」
「チーズ持って来てくれたら、どいたげる」
「そんなの自分で持ってきなさいよ」
「じゃ、どいてあげな〜い」
「んもぅっ、くだらないことばっかり言ってんじゃないわよ。後で覚えときなさいよ」
なんて軽く憎まれ口を叩いたけど、実際のところ、ちっとも腹なんか立っていなかった。
昔のアタシなら絶対にそんなことはしなかったと思うんだけど、今はこうしてミサトの希望を叶えるべくもう一度冷蔵庫の前に立っている。
世話になってるから、仕方なく? それとも、アタシが少しだけ大人になったから?
それはアタシにもよくわからないけど、でもこういうやりとりも、今はちょっとだけ嬉しいと思えるから不思議だ。
冷蔵庫のドアを開けながら、アタシはもう一度ミサトに目をやった。
昔と何ら変わらないミサトの様子を見ていると、まだあの頃のままでいるような錯覚を覚える。アタシとシンジとミサト、三人で過ごしていたあの頃のにいるような錯覚。
でもアタシの目の高さは数十センチ高くなったし、そしてミサトも一児の母になった。ここはコンフォート17マンションでもないし、シンジもいない。確実に時間は流れているのだ。
そんなミサトを見ていて、アタシにはひとつだけどうしても気になっていることがある。きっとその答えはアタシの想像する通りに違いなくて、アタシからいちばん遠いところにあるものに違いないから。だからアタシは、それをずっと聞けないでいた。
アタシはまだ錯覚の中を漂っているのかな。なんだか今なら思い切って聞けそうな気がする。
冷静に平静に、あくまでも何気ない会話のひとつとして、アタシは切り出してみる。
「ねぇ、ミサトはもう仕事しないの?」
「仕事?」
「そ。ネルフのトップでバリバリやってたミサトが家で大人しくしてるなんて。どうも調子狂うのよねぇ」
冷蔵庫からチーズの載った皿を左手で取り出すと、どうせすぐに飲み終えてしまうであろうミサトの分の缶ビールを左の小脇に抱え、さらに、近くにあったチョコレートの小袋とスナック菓子の大きな袋を右手で掴んだ。
「あら、小さな子供がいる家って、戦場さながらの生活でけっこう大変なのよ」
ソファの肘掛からミサトが顔を覗かせる。
「そうは言っても、ミサトは元々軍人なわけでしょ。そんな人間が家でジッとしてるのって、退屈なんじゃない? はい。チーズ」
アタシはミサトの顔の前に、チーズの皿をズズッと差し出した。
「サンキュ〜」
ミサトはアタシが差し出したお皿の上からチーズを一切れ摘むと、ヨイッと起き上がってアタシのためのスペースを用意した。
「そりゃ確かにアカリはかわいいわよ。でもだからって仕事を辞めちゃうことなかったんじゃない?」
「う〜ん、アスカはそう思う?」
「思うわよ。だってアタシたちは、あの訳の分かんない化け物相手に戦っていたのよ。そんな大きな仕事をしていた人間が何にもしないで家にいるなんて、無理があるわ」
「そうねぇ、アスカの言う通りかもねぇ。でもさっきも言ったとおり、私にとってはここも結構な戦場なのよ。家事っていう一番の強敵が毎日毎日襲い掛かってくるんだから」
ミサトはわざとらしく身震いして、フッと笑った。
「家事が強敵だなんて、敵もずいぶん小さくなったものねぇ。でもミサトが洗濯掃除に料理までやってるなんて、本当に驚いたわ。料理だって、昔に比べると大分マシになってるし。シンジに比べるとまだまだだけど、それでも普通に食べられるようになったもの。ミサトにしたら上出来よ」
「褒めてくれるの?」
「まあね」
アタシたちはお互いに横目でチラッと微笑んで、クスクスと小さく肩を震わせた。
ミサトとこんな風に話しができる日が来るなんて。あの頃それができなかったのは、たぶんアタシのせいなんだけど。あの頃のアタシは、自分以外の何者も認めようとしなかったから。
自分の周りのものすべてに距離を置いて、自分の主張を押し付けようと攻撃的になって、手を差し伸べてくれる人にさえ、敵意をむき出しにして。
「ねぇ?」
「なあに?」
「ミサトはどうしてそんなに変わることができたの?」
……何がミサトを変えたの?
自分でも驚くほど声のトーンが変わったアタシの問いかけに、ミサトも何かを感じたらしく、身体全体をアタシに向き直る。
「アスカがそんなことを私に聞くなんて、珍しいわね」
「昔のミサトを知ってる人間としての、素朴な疑問よ」
そう。素朴な疑問。
自分を捨てて、自分を抑えて、家族のために生きて。それでもミサトは今、幸せ?
「あら、昔とそんなに変わってないと思うけど? 今だって、アスカにお小言いただいたばかりじゃない」
「そうなんだけど、なんて言うのかな……確かに一見変わってないのよ。相変わらずだらしないし、大酒飲みだし」
「言ってくれるわね〜」
「でも実際はすごく変わったわ。昔のミサトは自分の欲求のまま気ままに生きてたけど、今のミサトは家族のために生きてるって感じがするもの」
「そうかしら?」
「そうよ。自分のやりたいことを全部我慢して、家族のために生きてるって感じがする」
「我慢ねぇ……」
ソファに大きく寄りかかって天井を見上げたミサトに向かって大きくうなずき、アタシはビールをグイッと煽った。
「アスカには私が我慢しているように見える?」
「見えるわ。仕事を辞めて、あれだけ苦手だった家事だってちゃんとやってる。それって、全部家族のためでしょ?」
「そうね。アスカのいう通りね。間違いなく家族のためだわ」
ほらね、やっぱり。
「でもね、家族のためだけど、家族のためじゃないのよ」
「何よ、それ?」
「う〜ん、何て言ったらいいのかなぁ。上手く説明できないんだけど……でもそうね、アスカもそのうちわかるようになるわよ。大切な人ができたら、きっとね」
大切な人ができたら……? じゃあたぶん、アタシには一生わからないわね。
過去を捨て未来を放棄しているアタシは、大切な人に自分の気持ちを伝えることさえできないでいるのだから。
気持ちを伝えることもできないで、未来が作れるわけないもの。
でもミサトはそうじゃない。自分で新しい未来を作ってる。
……そっか。そうなんだ。ミサトも今を一生懸命生きてるんだ。そうやって前を向いて歩いてるんだ。
「ねぇ」
「なあに?」
「ミサトは、今、幸せ?」
アタシを見つめたまま、ミサトは何のためらいもなくこう答えた。
「えぇ。幸せよ」
とても優しい笑顔だった。
でもなんだろう、この気持ち。
ミサトが幸せであることをアタシは心から嬉しいと思ってる。ミサトがもう二度と涙に濡れることがないようにと願ってる。それなのになんだろう、この気持ち。
胸の奥が、チクチクする。棘が刺さったみたいにチクチクして。
……ひとり、取り残された気分。
ミサトもシンジも、過去の自分を乗り越えて、前を向いてまっすぐ新しい道へ歩き出してるのに。アタシはいったい何をしているんだろう。
過去を捨てた振りをしながら、過去を忘れられず、強がったふりをしながら、本当は恐くて恐くてたまらない。自分の想いを伝える勇気も、封印する勇気もない。前にも進めず、後戻りもできず。
アタシはこの10年間、いったい何をしてたんだろう……
「ねぇ、アスカには結婚したいような相手はいないの?」
チョコレートを口に放り込みながら、不意にミサトが尋ねた。
「アタシ? 結婚してくれって言う人はいるわよ。山ほど」
「結婚式にはもちろん私も呼んでくれるんでしょう? ドイツなんて何年ぶりかしら? 楽しみだわ〜」
「結婚式? しないわよ、結婚なんて」
「アスカの気に入るような人がいないってこと?」
「それもあるけど、アタシは結婚しないから」
口に放り込もうとしたスナック菓子を右手に握り締めたまま、ミサトは驚いた顔でアタシを見つめた。
「……? 結婚しないって、この先ずっとってこと?」
「えぇ。そうよ」
そう。アタシは結婚なんかしない。結婚なんて意味がないから。
いちばん好きな人が振り向いてくれないなら、結婚なんて意味がない。
「アスカあなた、まさか家事をしたくないから結婚しないだなんて言わないでしょうね? だから急に私にあんなこと聞いて……」
「やあねぇ、違うわよ。アタシはミサトと違って、家事くらい余裕でできちゃうんだから。そうじゃなくて、ただ単にアタシが結婚したくないだけ」
「本当に結婚しないの?」
「ええ。しないわ」
「あなたのウェディングドレス姿を楽しみにしてた、なんて柄にもないことを言っても?」
「えぇ。無駄よ」
アタシはニッコリと、でもキッパリと答えた。
「どうして?」
「どうして? 決まってんじゃない。結婚なんて面倒なだけだからよ」
「面倒だなんて……アスカはきっといい奥さんになれるわよ。私が保証する。だって、誰よりも家族の大切さを知っているもの。アカリのこともすごく可愛がってくれるじゃない。きっといいお母さんになるわ」
「あはは。そうかもね。意外と子供の相手が上手で、自分でもびっくりしちゃった。アタシは子供が好きじゃないと思ってたけど、今は子供がいる生活も悪くないかなって思う」
「だったらなぜ……アスカならいくらでも素敵な人がいるでしょう?」
「いるわよ。アタシと結婚したいって人、それこそ数え切れないくらい」
「じゃあ、どうして?」
「ミサトはずいぶんアタシの結婚にこだわるのね」
あまりに執拗に食い下がるミサトに、少しだけ反発の視線を送る。
「別にこだわってるわけじゃないけど、でも、アスカには幸せになって欲しいから。小さな頃から辛い思いをいっぱいしてきたアスカこそ、幸せになるべきだと思うもの」
「あら、アタシは今のままでも十分幸せよ」
「そうかもしれないけど……」
「しょうがないわよ。結婚してもいいって思うくらいのいい男が、なかなかいないんだもの」
……シンジは手の届かない所にいるんだもの。
「そんなこと言ってると、いい男はみんな先に取られちゃうわよ」
「そのときは、ミサト、あんた誰か紹介しなさいよ。いくらでも伝手あるんでしょう?」
「…………」
今まで身を乗り出してアタシの説得にかかっていたミサトが、突然何かを考えるように俯き加減で黙り込んでしまった。
「ミサト?」
「…………」
「ミサトったら?」
不意にミサトは大きくため息をついて、
「まったく、あなたちはどうして同じことをいうのかしら? 二人して私に孫の顔を見せないつもり?」
大袈裟にオイオイと泣いたふりをして見せた。
「アンタ、いつからアタシの母親になったのよ?」
「いやぁねぇ、例えよ、例え。私はいつでもそういう気持ちでいるってこと」
呆れ顔のアタシを無視して、ミサトはわざとらしく肩を竦める。まったく、何言ってるんだか。
でもミサトの気持ちもわからないでもない。ミサトは全部知ってるから。アタシの家族のことも、アタシが育った環境も。
そしてミサトはアタシたち三人の同居生活が、必ずしも楽しかった思い出ばかりではないことも、ちゃんと分かっている。
だからこそ、アタシの結婚にこだわるのかもしれない。いや、結婚にこだわっているのではない。家庭という形にこだわっているのだ。
アタシたちの誰もが幼い頃に経験することのできなかった、温かい家庭という形に。
でも、ごめんね。ミサトの期待には応えてあげられそうにないや。
…………? あれ?
ミサトはさっき「二人して」って言わなかった? 「二人して私に孫の顔をみせないつもり?」って……? だって、シンジは……
「ちょっとミサト!」
「なあに? 私の説得で結婚する気になった?」
「違うわよ。アンタさっき『二人して私に孫の顔を見せないつもり?』って言ったわよね?」
「言ったわよ」
「それ、どういうことよ?」
「どういうことって、そのままの意味だけど? シンちゃんもアスカと同じことを言ってるのよ。ずっと以前からね」
「結婚しないってこと?」
「そ。シンちゃんもあれで結構頑固なのよねぇ。私がいくら説得しても、絶対に結婚はしないって言い張るのよ」
「どうしてシンジが……」
だって、シンジはアタシを結婚式に招待してくれるって。そのときは連絡しなくちゃね、って。
結婚する気がないだなんて、アタシにはひとことも……
「……シンちゃんて、そういう子だもの」
ソファにもたれ天井を見上げたミサトが小さく呟いた。
ミサトに言われるまで気づかなかったなんて。シンジがそういう性格だっていうのは、アタシがいちばんよく知っていたはずなのに。
必要以上に自分に責任を感じて、全部自分で背負い込もうとする。医者になったのだって、責任を感じてるからだって。結婚しないって言ってるのも、たぶん同じ理由で。
人の命を奪ってしまった自分は、家庭という希望を持ってはいけないんだと、きっとそう思ってるんだ。
そんな簡単なこと、なんで気づかなかったんだろう。
そっと差し出されたミサトの手。ふんわりとアタシの手に重ねられた。
「あなたたちは幸せになっていいのよ。あなたたちには、その権利があるんだから」
静かに言い聞かせるようにそう言ったミサトは、不本意だけど、少しだけ本当の母親のようで。
「…………うん」
アタシの手に重ねられたミサトの左手は、なんだかとても温かった。
「よし、決めた!!」
「な、何よ突然!?」
思いがけず声を張り上げたミサトに驚いたアタシは、思わず仰け反る。
「アスカ、あなたいつドイツへ帰るんだっけ?」
「明々後日だけど?」
「明日と明後日、何か予定は?」
「別に……」
「それじゃあ、デートしてきなさい!」
「ブッッ……はぁ?」
「だから、アスカは明日デートして来るのよ」
ミサトの突拍子もない発想に、ビールを飲みかけていたアタシは思わず噴出しそうになった。
一体どうしたらそうなるのよ!?
「どうしてそういう話になるのよ!?」
「結婚相手を探すために決まってるじゃない」
「何わけの分からないこと言ってんのよっ。アタシは絶対にいやよ。明日も明後日も、ドイツに帰る日までアカリとい〜っぱい遊ぶんだから」
「そりゃあ、アスカがアカリの相手をしてくれて、すごく助かってるわよ。でもそれとこれとは話しが別。保護者として、めいっぱいおせっかい焼かせてもらいますからね。うぅっ、なんか楽しくなってきたわ〜」
「あのねぇ、デートってのは相手がいなくちゃできないの。アタシには日本にそんな知り合いいないわよ」
「まっかせなさい!! この私を誰だと思ってるの? 私の伝手を総動員して、あなたに素敵な人を見つけてあげるから」
ミサトの顔がイキイキして見えるのは気のせいだろうか。
アタシはアンタのおもちゃじゃないんだからねっ。
「大きなお世話だっての! 結婚相手くらい自分で見つけるわよっ」
「そうやってアスカは私から楽しみを奪おうっていうのねっ」
そう言うと、またしてもわざとらしくオイオイと泣いて見せる。
「ミサト、アンタ性格悪くなったわよ」
「あら、アスカが気づいていなかっただけよ」
何よ、嬉しそうにウインクなんかしちゃって。アタシは絶対にそんなの認めないんだから。
「まあ、見てなさいって。このミサト様が、とびっきりいい男を見つけてあげるから」
「ふんっ。勝手にすれば! アタシは絶対に行かないわよっ」
そんな私の様子を見て、ミサトはニヤニヤしながら実に美味しそうにビールを喉に流し込む。
「明日が楽しみだわ〜」
「絶対に行かないんだからねっ」
そんな風にいきり立つアタシを見て、ミサトはいつまでも笑っていた。
...続く