「トウジ、すごく照れてたね」
「普段は体育会系気取ってるくせに、こういうときは全然だめなのね。なっさけな〜い」
「仕方ないよ。結婚式だもん。トウジだって緊張するさ」
「ヒカリ、綺麗だったわねぇ。鈴原は、馬子にも衣装ってとこかしら?」
「ははは……」
ホテルから駅までの道のりを、アタシとシンジは二人肩を並べて歩いていた。ターコイズブルーのシフォンドレスの裾が、ハラリと風になびく。
「それにしても久しぶりよね。10年ぶりかしら?」
「今24歳だから……そうか。もう10年も経つのか……」
シンジは感慨深そうに夜空を見上げてから、アタシを振り返った。
「アスカはあれからどうしてたの? ドイツに帰ってから」
シンジの口から何気なく発せられたこの質問に、アタシの胸は張り裂けそうになる。
アタシがドイツに帰ってからの10年間、アンタは一度だってアタシのことを気にかけたことなんかないくせに。一度だって電話もくれなかったくせに。手紙だって、ただの一通も……
興味がないんだったら、そんなこと聞かないで。
「気になる?」
「ん、まあね」
……うそつき。
「もう一度大学へ行ったわ。大学院へも」
「でもアスカはもう大学を卒業してたんじゃ……」
「そうよ。日本に来る前にね」
「じゃあ、どうして?」
「相変わらずバカねぇ、アンタは」
「相変わらずって何だよ」
前を向いていたアタシにはシンジの顔は見えなかったけど、それでも少しだけムッとしているのがわかった。
「大学を卒業したってだけの肩書きなんか、あってもなくても一緒よ。エヴァがなくなった今、アタシはただの厄介者でしかないんだから」
「厄介者って、そんな……」
「アンタだってこの10年で十分感じたでしょ。アタシたちは決して歓迎される人間じゃないってこと。ドイツに戻ったって、アタシの居場所なんかないのよ。だから、自分で自分の居場所を作るために、もう一度やり直さなくちゃいけなかったの」
……みんなに認めてもらえるように。
「アタシ、弁護士になったのよ」
……一人でも生きていけるように。
「へぇ。アスカはやっぱりすごいなぁ」
変わらないわね、アンタは。
「別にすごいことなんかないわ。そのくらいの覚悟がないと、一人で生きていくなんてできないもの。そういうアンタはどうしてたのよ?」
アタシは隣りにいるシンジをチラッと見上げた。
「僕? 僕は普通だよ。高校行って、大学行って」
「普通、ね」
なぜかカチンと来たアタシは皮肉交じりに尋ねる。
「それで、普通にドクターになったってわけ?」
「アスカ、知ってたの!?」
「ミサトに聞いたわ」
ミサトから話しを聞いたときは、自分の耳を疑った。あのシンジが、医者になるだなんて。
自分のこともわからないような人間に、人のことがわかるのかって。自分を救えなかった人間に、人の命が救えるのかって。
アタシを……殺そうとしたくせに……って。
「大したもんじゃない。ドクターじゃ前途洋々ね」
「そんなことないよ……僕はそれ以外に罪を償う方法が見つけられなかっただけさ。命を救いたいんだ……失った分まで」
アタシと同じ。ずっとあのときのことを胸に抱えたまま、この10年を生きてきたのね。
だからかもしれない。コイツのせいであんなに酷い目に会ったのに、アタシは少しもシンジのことを恨んではいない。あのときは、アタシもシンジも普通の精神状態ではなかったんだと思う。身勝手な大人たちに踊らされたチルドレンの、行き着く果てだったのだと思うから。
アタシたちはもう十二分に苦しんだ。苦しんで、追い詰められて、打ちのめされて。
なのに、この先もずっとこの想いを抱えて生きていかなくちゃいけないのだろうか?
アタシたちを捕らえて離さなかった大きな闇は、10年経った今でもアタシたちを自由にはしてくれないのだろうか? どうしたら、アタシたちは赦してもらえるのだろうか?
「そんなことをしても、僕のせいで失われた命が戻ってくるわけじゃないんだけどね」
シンジは自嘲気味に笑った。
サードインパクトの後、赤い海から戻ってきた人たちは元の人口の2/3程度。人の形に戻ることを望まない人々が数多くいた結果だ。それは誰のせいでもない。本人たちの意志。だから全てがシンジのせいだけでないことは、みんなわかっている。
それでもきっかけを作ってしまったのは自分であるという事実が、シンジを捉えて離さない。
アタシたちは、一体何から赦しを請えば救われるのだろう? それがわかれば、きっとこんなに苦しまずに済むはずだ。
今のアタシたちにわかっていることは、手に余るほど多くのものを抱えてしまったということだけ。それは24歳の今になっても消えることのない大きな十字架。14歳であった当時のアタシたちは、それを飲み込むことができなくて当然だったのだ。
自分という形を保つのが精一杯で、自分を生きるのが精一杯で。自分さえも理解できなかった幼き日のアタシたちには、他人を理解し思いやる余裕など微塵もなかった。
いや、自分は他人を理解しているつもりになっていたが、それはただの思い込みに過ぎなかったのだ。
その思い込みがアタシたちの間に、大きな溝を作りもしくは壁となった。溝や壁の大小に変化はあったかもしれないが、アタシがドイツに帰る日になっても、それが消えてなくなることはなかった気がする。最後の日までシンジに言えずにいた言葉を、今でも引きずってるのがいい証拠だ。
ふと目に入ったウインドウに映っていたのは、アタシの頭の上から覗くシンジの黒い影。最初に会ったときから、ずっと気になっていた違和感の原因がそこにあった。
「シンジ」
「ん?」
「ちょっとここに立って」
少し先を歩いていたシンジを呼び止めて、自分の右隣を指差す。
「何かあるの?」
「いいから」
「なあに?」
「ちょっとこっち向いて立って」
少しだけ首を傾げてアタシのところまで引き返して来たシンジを自分の右隣りに立たせると、二人でウインドウを向いて並んだ。
「やっぱり」
「やっぱりって、何が?」
「これよ、これ」
「これって?」
アタシが指差す方に目を凝らして、ウインドウを覗き込む。
「違うわよ。こっちよ」
ウインドウの中を覗いているシンジに、ガラスに映っている自分を見るように促した。
「僕がどうかしたの?」
アタシの知らないシンジが、そこにいた。
165cmのアタシがヒールを履いて並んでも、それでもシンジの方がもう少し大きくて。細身の黒いスーツに光沢のある桜色のネクタイをして。髪も、ちょっと短いかな。
訓練も受けていない今のアタシでは到底敵わないくらいに、身体の線が男らしくなって。それに、声も低くなった。
これだけ容姿を変貌させる年月というものが、いかに長いものだったか。
しかしながらその長い年月を隔てて再会した今も、昔と変わりなく自然に会話ができているということに驚く。
長い月日を重ねても、アタシたちの本質は何も変わっていないということか。それとも、アタシたちが一緒に過ごしたあの短い時間が、時の流れを軽々と乗り越えてしまうほど、密度の濃いものだったということだろうか。
少なくとも、あのとき二人で共有した時間は、良くも悪くも、アタシたちのその後の人生に大きな影響を及ぼした。
今日までの、シンジのその後の人生はどうだった? アタシがいなくなった後の、その後の人生は……
シンジは、今、幸せ?
「アタシのことを見下ろすなんて、生意気よ」
「何のこと?」
「デカくなりすぎだって言ってんの!!」
「えっ、そんな……」
アタシの理不尽な指摘にシンジは頭を掻いて、身を翻して歩き出したアタシの後ろを慌てて追いかける。シンジはリーチの長くなったその足で簡単にアタシに追いつくと、また肩を並べた。
シンジのくせに生意気よ……
「ドイツへはいつ帰るの?」
シンジはアタシの理不尽な怒りにも慣れっこだというように微笑む。
「5日後の飛行機で帰るわ」
「そっか……もっとゆっくり話しがしたかったね。今度日本へはいつ来られるの?」
「わかんない。これでも結構忙しいから。でも、そうね……アンタの結婚式には帰ってきてあげるわ」
「ははは。じゃあそのときは必ず連絡しなくちゃね」
……否定、しないのね。くだらないこと、言わなきゃよかった。
冗談で言ったつもりの自分の言葉が虚しく空に舞う。空に舞った言葉を追いかけるように暗い夜空を見上げたそのとき、音を立てて吹き抜けて行ったビル風に、アタシの髪がハラハラと踊った。
「ねぇ」
「何よ?」
「なんでアスカは髪を染めたの……?」
シンジは手を伸ばすと、風に舞うアタシの髪をスッと手にとってサワサワと撫でた。細い髪の毛の先から、シンジの温もりを感じられる気がして、とても気持ちいい。
「気軽に他人の髪に触んないでよっ」昔のアタシなら、そんなことを言っていたかもしれない。でも今は違う。
他人を拒絶するだけだった昔のアタシは、赤い海の底に置いてきたから。自分が他人を受け入れなければ、他人も自分を受け入れてはくれないことを知ったから。
相手が……シンジだから。
「ヨーロッパでは黒髪が流行ってるのよ」
「ふ〜ん、そうなんだぁ」
何の根拠もないアタシの言葉に、シンジはひどく感心した様子で頷いた。
ドイツに帰ってから、アタシはずっと髪の毛を黒く染めている。でもそれは流行なんかじゃない。アタシの意志だ。綺麗なブロンドを染めるなんてもったいないと言う人もいたが、アタシ結構気に入っている。
14歳でドイツに戻されたアタシには、ある種の決意表明のような行動だった。過去の自分と決別することで、アタシは強くなりたかったんだと思う。髪の色を変えただけで生まれ変わるなんて無理だと言う人もいたけれど、要は気持ちの問題で。
実際、鏡を覗く度、見慣れぬ黒髪の少女と対峙する度、アタシはこれから始まる未来に微かな希望を感じられるような気がした。別人になれたような気さえした。
もちろん髪の色はブラウンでも赤毛でも良かったのだけれども、そのときのアタシには黒髪しか思い浮かばなかったのだから仕方がない。
なぜだろう。黒髪を見ると、誰かを思い出すからだろうか。それとも、誰かを忘れたくなかったからだろうか。
「なんかアスカじゃないみたいだ」
そう言って、シンジは目を瞬かせた。
「けっこう似合うでしょ?」
「うん。初めはびっくりしたけど、すごく似合ってるよ」
「それに比べてアンタは……」
アタシは腕を伸ばすと、シンジの髪をワサワサっと掻き毟ってグチャグチャにする。
「ちょ、ちょっとやめてよ、アスカ」
背の高くなったシンジの頭の上まで腕を伸ばすと、シンジとの距離がすごく近くなって。シンジの顔がすぐそこにあって。アタシの胸とシンジの胸が触れてしまいそうなほど近くになって。
このまま腕を下ろして抱きついたら、シンジはどうする……? そしたらシンジは……抱きしめてくれる?
手をシンジの頭に載せたまま、アタシはシンジを見上げる。アタシの手に押さえつけられるようにして、少しだけ俯き加減になって、なんだか困ったような顔をして。アタシがこんなに近くにいるのに、そんな顔しかできないなんて。
……そんな顔しかしてくれないなんて。
アタシがこんなに近くにいるのに……触れたいとは、思わない?
拒絶されるのが怖くて、アタシはヒラリと身を翻した。
「アンタのその頭、相変わらずオシャレとは縁がなさそうね」
「仕方ないだろ。医者といってもまだ研修医だから、忙しくてそんなのにかまってる暇がないんだよ」
「そんなに忙しいの?」
「まだまだ覚えることがたくさんあるからね。それに雑用もあるし」
「ふ〜ん。頑張ってるのね。シンジのくせに」
「まあね」
シンジはハハハと笑うと、駅に向かって再び歩きだした。
「じゃあ……」
「ん?」
「明日も仕事なの?」
「うん」
「明後日も?」
「うん」
せっかくアタシが日本にいるっていうのに……?
「忙しいのね」
「今が頑張り時だからね」
そう言って振り向いたシンジは、アタシが初めて見る顔をしていた。ちゃんと前を向いて歩いている、男の人の顔。昔のシンジには想像できなかったような男の顔。
……アタシの知らないシンジ。
過去の自分を捨てて新しい自分に生まれ変わろうとしているアタシと、過去の自分を乗り越えて前を向いて歩いていこうとしているシンジは、きっとこの先の人生で再び同じ道の上を歩くことはないのだろう。同じ空間の中で共に戦い、共に過ごしてきた時間は、もう二度と戻らない。
どこで間違えたんだろう。どうしてこうなってしまったんだろう。
あのとき違う言葉をかけていたら、アタシたちの人生は変わっていたのだろうか?
でももう、手遅れだから。今頃気づいても、遅すぎる。過去をいくら振り返っても、あの頃は帰ってこないのだから。
シンジのその後の人生は……
アタシのいなくなった後のあなたの人生は、きっと幸せだったのね。今のその顔でよくわかった。アタシがいなくても、アンタは幸せになれるんだ。
でも、アタシは……
間もなく、眩しいほどの光に包まれた駅の入口が姿を現した。
「アスカはどこに泊まってるの? ミサトさんのところ?」
「そ。アタシはいいって言ったんだけど、ミサトがどうしても来いってうるさくて」
「ミサトさんも久しぶりに会えて嬉しいんだよ、きっと」
ミサトさんも……? じゃあ……アンタは?
「僕も最近ミサトさんに会ってないんだよなぁ。あーちゃん、大きくなっただろうなぁ」
ねぇ、アンタは……?
「じゃあ、僕こっちの路線だから」
シンジはアタシの心の内にまるで気づいていないといった風に、笑顔で向かいの改札口を指差す。
「あ、うん」
10年ぶりの再会だというのに、呆気ないのね。次に会うのはいつになるのかわからないのに。もしかしたら、もう一生会えないかもしれないのに。
改札を潜ったら、また別々の道を歩かなくちゃいけないのよ。二度と交わることのない、別々の道を。だからこれが、本当の最後なのよ。
シンジはいいの? 本当にいいの? 後悔したって知らないわよ。アタシは、ドイツへ帰っちゃうんだから……
……帰っちゃうんだから。
「じゃあ、またね」
「ええ」
「ミサトさんによろしくね」
「ミサトに電話してあげなさいよ。最近連絡がないって、シンジのこと心配してたわよ。あれでも一応保護者のつもりなんだから」
「うん。そうするよ」
「明日も、仕事頑張りなさいよ」
「うん。ありがとう」
「それから」
「うん?」
「たまには……」
「?」
「時間があるときは……」
「なあに?」
「時間があるときは、ミサトのところに顔出してあげなさいよ」
……アタシのこと、思い出しなさいよ。
「アカリもシンジに会いたがってたし」
「うん。そうするよ」
「それから……」
「クスクス。なんだかアスカ、お母さんみたいだ。大丈夫だよ。心配しなくても。僕は大丈夫」
そう言って笑ったシンジは、なぜかとても嬉しそうな顔をして。
ここでアタシとお別れなのに、やけに楽しそうなのね。アタシはこんなにも……
「アスカ、そっちの改札口だよね?」
「ええ」
シンジは向かい側の改札口に顔を向ける。
「アスカ、パスカードは持ってる?」
「持ってるわ」
「ミサトさんの家までの電車の乗り換え、ちゃんとわかる?」
「大丈夫よ。乗り換えは一度だけだし」
「ここから3つ目の駅で乗り換えるんだよ? 大丈夫?」
アタシはわざとらしくため息をつくと、
「ちょっと、アンタの方がよっぽどお母さんみたいじゃない」
そう言って、シンジの顔を覗き込んだ。
「ははは。そうかも」
シンジはさも楽しそうに笑うと、静かにアタシに向き直る。ついにそのときが来たことを悟ったアタシの胸が、キュゥッと音を立てた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「うん」
「アスカ、元気でね」
「ええ。アンタもね」
「じゃあ、またね」
「ええ」
お互いに軽く手を振って、別々の改札口を目指す。アタシが改札口を潜って振り向くと、シンジはちょうど改札口にカードをかざしているところだった。ゲートが開いて、シンジは向こう側の世界に吸い込まれていく。
「シンジっ!!」
突然シンジの名前を呼んだ自分に驚いた。シンジの背中を見ていたら、自然とシンジの名前が口をついて出たのだ。遠くなっていく背中を見ているのが苦しかったからかもしれない。もう二度と会えないかもしれない、その背中を。
……行かないで。
アタシの心は悲鳴を上げてるのに。
……アタシのそばにいて。
アタシの心はこんなにもあなたを求めているのに。
「どうしたの?」
シンジはアタシの呼び声に、改札口のギリギリまで歩み寄った。
「アタシ……」
今言わなきゃ。でないと、一生後悔する。
今を逃したら、きっとあなたとは会うことは、もう二度とないから。
「アタシっ……」
「なあに?」
10年前に言えなかったことを、今……
「アタシ、シンジに……」
「?」
「シンジに……」
苦しくて、苦しくて。アタシは思わず俯いた。
そして小さく首を振ると、もう一度顔を上げてシンジを見つめる。
「……シンジが立派なドクターになれるように、祈ってる」
「ありがとう」
シンジはニッコリと微笑みそして大きく手を振って、向こう側の人込みに消えていった。
あれから10年も経ってるのに。もう子供じゃないのに。
大切なひとことを……アタシはやっぱり言えなかった。
...続く
あとがき
最後まで読んでくださってありがとうございました。
先日、大学時代の先輩の結婚式へ行った際、色々思うところがありまして。
それでこんなお話しを書いてみることになりました。
副題の付いた3〜4部から成るお話しにしようかなと思ってます。
第2部も頑張って書いてますので、ぜひ応援してくださいね。
感想、お待ちしております♪