朝の眩しい日差しを背に、僕はひとり息を切らせて走る。

「なんだよ。アスカったら」

アスカが日本に帰って来てからは毎朝アスカが迎えに来てくれていたから。
うっとおしいと思いながらも、僕の中ではそれはとっくに当たり前のことになっていて。
だからアスカが迎えに来ないなんてこと、想像もしていなかったんだ。

また明日ね、って言ったじゃないか。
なんで迎えに来ないんだよ。

おかげで遅刻寸前の僕は、こうして走る羽目になったのである。
本当は予定通りの時間にちゃんと起きなかった自分が悪いのだが、思わず八つ当たりしてしまう。

昨日はアスカとたくさん話しをして、昔のことをたくさん思い出して、幼なじみとしていい関係を築けそうな気がしていたのに。
それなのに、なんでアスカは……

母さんに叩き起こされた僕は身支度もそこそこに家を飛び出すと、アスカの家のチャイムを鳴らした。
僕を迎えに来ないアスカは風邪でもひいているのかもしれないと思ったからだ。
欠席するのなら、先生へは僕が伝えてあげよう。
そんな妙な責任感を持って、返事を待った。

そこに玄関を開けて出てきたのは、アスカのお母さんだった。
やっぱりアスカは風邪をひいたのかもしれない。

ところがアスカのお母さんは、想像だにしなかったことを僕に告げた。

「ごめんなさいね、シンジくん。今日は用事があるからってアスカは先に出かけたのよ。アスカったらシンジくんにちゃんと伝えてなかったのね。せっかく迎えに来てくれたのに、本当にごめんなさいね」

昨日はそんなこと一言も言ってなかったくせに。
それどころか、また明日ねって言ったじゃないか。

……違う。
「また明日」って言ったのは僕で、
アスカは「ばいばい」って言ったんだ。
「ばいばい」って。

少しの不安と小さな胸騒ぎを覚えた僕は、学校へ向かって走り出した。


教室に、確かにアスカはいた。
僕の斜め前の席にちゃんと座っている。
でも、ただそれだけ。

遅刻ギリギリで教室に飛び込み先生にお小言を言われたときも、先生に当てられた僕がしどろもどろになってみんなに笑われたときも、アスカは一度だって僕を振り向かない。

僕にはアスカがそんな態度になったことの理由が微塵もわからなくて、ただオロオロするだけで。
昨日はあんなに打ち解けたと思ったのに。

「アスカ、一緒にお弁当食べない?」

「ごめんなさい。ヒカリと約束してるから」

こんな感じで、ことごとくアスカは僕を遠ざける。

「アスカ、一緒に帰ろう?」

「今日は寄るところがあるから」

アスカを変えてしまったのは、何なんだろう。
知らない間に僕はアスカを傷つけるようなことをしたんだろうか。

朝は気づく余裕もなかったけど、一人で歩く通学路はとても広く感じる。
賑やかなおしゃべりもないから、トボトボと歩く自分の足音ばかりが耳について心寂しい。

いや、今まではずっとこうだったんだ。
アスカが日本へやって来る前と同じ状況に戻っただけじゃないか。
だから今日はアスカのいない一日を満喫しよう。

「アタシの趣味じゃない」と言って見せてもらえなかった映画を見たり、いつもはほとんどをアスカに食べられてしまうスナック菓子を独り占めしたり、誰に命令されるわけでもないから時間の許す限りダラダラしたり。

学校から帰って数時間。
僕は僕の思い通りの時間を満喫した。
……はずなのに。
なのに、玄関ばかりが気になって何度も確認してしまう。
もしかしたらいつものようにアスカがやって来るんじゃないかって。
「おなかすいた〜」とか言いながら入ってきて、僕が見ている映画を見るなり「くっだらない映画見てるわねぇ」なんて言って、僕のスナック菓子を横取りして、これでもかというほどソファを陣取って。
夕方になるまで、そんな風に過ごしに来るんじゃないかって。
僕に会いに来るんじゃないかって。

でも、夕闇が辺り一面を覆う時刻になってもアスカはやって来なかった。
この日から、この時から、同じことの繰り返しの、つまらない日常が戻ってきた。



母さんに叩き起こされて父さんの横で大急ぎの朝食を摂り、再び母さんに急かされながら家を出る。
ひとりで登校して、惰性で授業を受け、帰りはトウジやケンスケと寄り道をして。
アスカが日本に来る前と同じ。
何もかもが元通りになった。
僕の日常から、アスカという登場人物が消えた。

消えたと言っても学校へ行けばアスカはいるわけだから、アスカが本当にいなくなったという意味ではない。
大勢いるクラスメートの一人に過ぎない存在になってしまったということだ。
顔を合わせても挨拶をするくらいで、下手をしたら挨拶も交わさないで終わる日もある。

アスカが学校へ来た初日アスカとの関係を聞かれ、僕は咄嗟に「お隣さん」と答えた。
でも今の状態はきっと、お隣さん以下だ。

毎朝一緒に登校し、一緒に帰宅していた僕たちが、急に冷ややかな関係になったことにクラスのみんなが気づかないはずがない。
僕はみんなからの追及を恐れたのだが、有り難いことに大方の人間は勝手な解釈をしてくれたみたいで。
僕とアスカは大喧嘩中。
そんな噂が静かに教室を駆け巡った。
僕でさえ本当のところはわかっていないのだから、その勝手な解釈に便乗させてもらうことにする。
しかし訂正をしないという僕の消極的な行動が、益々アスカとの接点を失わせた。

一日目はまだ大丈夫だった。
二日目もまだ頑張れた。
三日経ったとき、少しだけ落ち込んだ。
四日目の帰り道、ひとりで歩きながら僕は初めて思った。

……寂しい。



風呂上り、僕はサンダルを引っ掛けてベランダに出た。
夜風は少しの暖かな空気と混ざり合い、程よい温度で僕の髪を揺らす。
満開だった桜の木は今は青々と茂り、風に吹かれるとサワサワと音を立てた。
ずっと暗いままだった隣の家の窓からは、煌々と光が漏れている。 アスカの部屋の明かりが。

僕は手すりに背を向けて寄りかかると、そのままズルズルとしゃがみ込んだ。

アスカが日本に帰ってくると聞いたとき、僕は憂鬱だった。
面倒を見なくちゃいけないだなんて、本当に運が悪いと思った。

アスカに初めて会った日、あまりの可愛さに驚いた。
天使のような微笑と、抱きつかれたときのあの感触に、
お世話係も悪くないと、邪な思いが頭を過ぎった。

アスカが初めて登校した日、アスカの豹変振りに驚いた。
僕の前で見せる態度とクラスメートに対する態度の差に、忌々しい思いでいっぱいになった。

アスカが僕の家に入り浸る毎日、アスカの横暴ぶりに辟易した。
すべてがアスカのペースで事が運び、すべてがアスカの好みで決定する。
そんな毎日にうんざりした。

アスカと丘の公園へ行った日、本当のアスカを見た気がした。
昔を懐かしみ初めて自分のことを話してくれたアスカに、幼馴染としていい関係を気づいていけると確信した。

アスカが僕をおいて登校した日、何が起きたのかわからなかった。
僕の日常から、再びアスカがいなくなるなんて想像したことがなかったから。
アスカのいない毎日は、とてもつまらなかった。

ずっとこんな調子だ。
あれから毎日、僕は同じ事を考えている。
アスカが日本に帰ってきてからまだ1ヶ月くらいなのに、僕とアスカの間にはこんなにもたくさんの思い出があって……

僕はしゃがみ込んだまま、頭を抱える。
だってどうしようもないんだ。
僕にはどうしていいのかわからないんだ。
こんな気持ちになるなんて思わなかったんだ。
何をすれば、前のようにアスカが笑ってくれるのか。
バカシンジでも構わないから。
鞄持ちでも構わないから。

アスカに、会いたい。




...続く




あとがき

最後まであと少し!





前話     目次     ホーム     次話