カラカラカラカラ


頭を抱えている僕の耳に窓を開ける音が聞こえた。
もちろん僕の部屋の窓じゃない。
あれは……アスカの部屋の窓の音。
タタッと音がしたので、ベランダに出たのだろう。

僕の部屋とアスカの部屋のベランダは続きになっておらず、2mくらい離れている。
そのため衝立のようなもので区切られてはいないから、立ち上がれば当然姿が見えてしまう。

しゃがんでいる僕からはアスカの姿は見えていないのだけど、アスカがそこにいると思うだけで変な緊張が僕を襲う。
さっきまであんなにアスカに会いたいと思っていたくせに、いざそのチャンスが訪れるとどうしていいのかわからなくて。

僕は息を潜めた。
このままこっそりと部屋に入ってしまおうか。
でも窓を開ける音で気付かれてしまうに違いない。
そんな姿を見られることの方がよっぽど恥ずかしいか。
僕は思い切って立ち上がり、声をかけた。

「アスカ」

まさか僕がいるとは思っていなかったのであろう。
アスカはビクッと振り向いた。

「……シンジ……あ……えっ!?」

驚いた拍子に、アスカの手から何かが滑り落ちる。

「あっ!!」

僕たちは慌てて下を覗き込んだ。
アスカの手を離れた小さな白い何かが、クルクルと回転するように落ちていく。

「ご、ごめん、アスカ。脅かすつもりはなかったんだけど……すぐ拾ってくるよ」

「いい! アタシ自分で取りに行くから、シンジは来なくていい!!」

「じゃあ、僕も一緒に行くよ。もうこんな時間だし、アスカ一人じゃ危ないよ」

アスカは俯き唇を噛むと、黙って部屋に戻っていった。
僕も急いで部屋に戻るとバタバタと玄関へ向かう。

「シンジ、こんな時間にどこに行くの?」

「ベランダから物を落としたから、拾ってくる」

母さんの声を背中に受け、僕は玄関を飛び出した。

僕が外に出るとアスカはすでにエレベーターを呼び出しているところだった。
駆け寄った僕を一瞥し、階数表示をみつめる。
そして到着したエレベーターに、二人で無言のまま乗り込んだ。

「何を落としたの?」

僕の質問にアスカは正面を向いたまま答える。

「栞……」

「栞って、この前学校に持ってきていたやつ?」

「そう」

やっぱりあの栞は大切なものだったんだ。

「あの栞は……」

そう言いかけた時、ガタンと音を立ててエレベータが到着した。
エレベーターが開くと同時に飛び出したアスカは、外に向かって走り出す。
もちろん僕も後を追いかけた。

アスカと僕は自分たちの部屋のちょうど真下辺りで立ち止まると、一度上を見上げて場所を確認した。
この辺に落ちてるはずなんだけど。

辺りを見回しても、栞らしいものは見当たらない。
マンションの植え込みやフェンスの隙間、それに向かいの公園の植え込みも探してみたけど見つけることはできなかった。

「アスカ、ごめん。僕がアスカのことを驚かせたりしなければ……」

「もういいわよ。これだけ探しても見つからないんだから、諦めるわ」

「でも大切なものだったんでしょ? 明日、明るい時間にもう一度探してみるから」

「本当にいいの! もう必要ないものだから」

あんなに大切にして、こんなに必死に探して、必要がないなんて嘘に決まってる。
明日、もう一度探してみよう。
僕は勝手に心の中で決めていた。

それにしても、こんな風にアスカと話すの久しぶりで。
なんだか、少しだけ嬉しい。
今なら聞けるかもしれない。
アスカの態度が変わってしまった理由を。
このチャンスを逃したら、もう永遠に聞くことができないかもしれないから。

「アスカ」

「何?」

「あのさ……その……」

「何よ。はっきり言いなさいよ」

「だから……聞かせて欲しいんだ」

「何を?」

「何で急に僕を避けるようになったのかって」

アスカは目を大きく見開いて、そして僕の視線から逃げるように顔を背けた。
そして呟く。

「別に避けてなんかいないわ」

「避けてるじゃないか。僕、アスカに何かした? 急に一人で学校行っちゃうし、うちにも来なくなって、ろくに挨拶もしなくなって。こんなの変だよ。おかしいよ」

「だって、迷惑だったんでしょ? アタシのこと」

「迷惑だなんて……そんな……」

「ずっと一人になりたいって思ってたんでしょ。シンジは家でも学校でもそういう顔してたもの。だからそうしてあげただけじゃない。文句を言われる覚えはないわ」

「そんなこと思ってないよ」

「じゃあ、どういう風に思ってたのよ?」

僕は一瞬たじろいだ。

「どうって……」

そんな返事しかできない僕をアスカはキッと睨み付けると、

「アンタはやっぱり何もわかってない」

そう言い残して、マンションへ向かって駆け出した。

そうかもしれない。
今の僕には、どうしていのか何もわからない。



朝もやで空気がひんやりする。
でもお陰で完全に目が覚めた。

僕は昨夜見つけられなかったアスカの栞をひとりで探していた。
今の僕にはこれくらいのことしかできないから。
アスカはきっと、余計なことをするなって怒るかもしれない。
それでもアスカが大切にしていたものだって知ってるから。
こうなったのは僕のせいだから。

明るさを増してきた空の下で、僕は昨日と同じ場所をもう一度隅々まで探すことにした。
学校に行くまで、時間の許す限り。

マンションの植え込みもフェンスの隙間も隅々まで探した。
昨夜は暗くてよく見えなかった場所も、首を突っ込んで、手で探って。
でも白い長方形はどこにも見当たらない。
もしかしたら、途中の階のベランダに入ってしまったのかもしれない。
そうなったら探し出すことはほとんど不可能だ。
そのときはもう一度アスカに謝ろう。
僕は半ば諦めの気持ちを抱きながら、最後に公園の植え込みを探すことにした。

大きな公園ではないから、植え込みのスペースも小さなものだ。
僕は屈んで植え込みを掻き分けた。
そんな場所を何度探しても、結果は同じ……

僕は見つけることができなかった。
もう他に探す場所もない。
アスカに謝ろう。
そしてアスカが望んだように、僕はアスカから離れよう。
アスカを困らせるのは、もうやめよう。

僕はガックリと肩を落としたまま、マンションのエントランスを潜ろうとした。
そのとき。


……見つけた。


エントランスのすぐ脇の壁際に張り付くようにして、落ちていた。
部屋の真下付近を中心に探していたから、
こんな場所に落ちているなんて思いもしなかった。
そうか。昨夜は少し風があったから、こんな方まで飛ばされていたのか。
僕は手を伸ばして、壁と地面の溝に挟まっている栞を手に取った。

紫色の小さな押し花が付いた、手作りの栞。
アスカが大切にしている宝物。
この小さな栞にアスカのどんな思い出が詰まっているんだろう。
僕はその栞を顔の高さまで持ち上げて、なんとなくひっくり返してみた。


……これ……って……




僕は急いで部屋に戻って制服に着替えると、そのまま家を飛び出した。
アスカと話をするためには、アスカより先に家を出なくてはいけないから。

公園の柵に腰をかけて、アスカが出てくるのを待つ。
本当は待ち伏せのようなことはしたくないけど、でもこうでもしないときっとアスカは僕の話を聞いてくれないに違いない。
どうしても聞いてもらいたいことがあるんだ。

20分くらい待った頃、ようやくアスカが姿を現した。
すぐに僕に気づいたらしいアスカは、一瞬立ち止まりじっとこちらを見つめる。
そして僕が歩み寄ろうとするより早く、身を翻した。

「アスカ!!」

僕の声に、足を止める。

「見つけたよ。アスカの栞」

アスカは振り返り驚いた顔で僕を見た。
そのまま立ち尽くすアスカに歩み寄り、僕は栞を差し出す。
少しの間、アスカはジッとその栞を見つめていたけど、そっと手に取って、

「ありがと」

それだけ言って、立ち去ろうとした。

「あっ、待ってよ、アスカ! ちょっと待って」

歩き出したアスカに慌てて駆け寄り、アスカの手首を掴む。

「僕、思い出したんだ。アスカとの約束、思い出したんだよ」

「嘘っ」

「嘘じゃないっ。本当に思い出したんだ」


さっき栞の裏側を見て、僕はやっと思い出した。
そこに書かれていたのは、小さな頃の僕が下手くそな字で一生懸命書いたあの頃の僕の精一杯の思い。

”あすか がんばれ”

「あすか」の「あ」の字なんて鏡文字になっちゃってるけど、でも確かに僕が書いたものに違いない。

そしてあの押し花。
あれは、アスカとお別れする日に僕が公園で見つけてきた雑草だった。
僕はその花をアスカに渡して、泣きながらこう言ったんだ。

「かえってきたら、またぼくがあすかのこと、まもってあげるからね」


僕の話を聞いたアスカは、顔を真っ赤にして今にも泣きそうな顔で唇を噛んだ。

「今まで思い出せなくてごめんね。約束はちゃんと守るよ。僕はずっとアスカの傍にいるから。何かあったら僕が必ず助けに行くから」

「いいわよ……」

「えっ?」

「そんなことしなくていいって言ってるのよっ」

「でも……」

「そんなこと義務でしてもらったって、全然嬉しくなんかないわっ」

「義務じゃないよっ」

「義務じゃないっ。ずっと思い出せずにいたから、その罪滅ぼしでしょ?」

「違うよ。そうじゃない。僕がそうしたいんだ」

僕は掴んでいたアスカの手首に、ギュッと力を込めた。

「何で急にそんなこと言うのよ? アタシ、やっと決めたのに。シンジの迷惑になるならアタシはシンジのそばに居ちゃいけなんだって。シンジに頼らないで頑張ろうって。ドイツにいたときと同じようにひとりで頑張ろうって」

「僕は……」

一呼吸おいてさらに話しを続ける。

「僕は正直、僕の生活を乱すアスカがうっとしいと思ってた」

「やっぱり!!」

「でも今は違う。アスカと一緒に学校へ行って、アスカと一緒にお弁当を食べて、アスカと一緒に家に帰って、家でもずっとアスカと一緒で。そんな生活がとても楽しいと思うんだ。知らない間に当たり前の生活になってたんだって、この数日でやっと気が付いた」

「……気付くのが遅いわよ。バカシンジ」

アスカが小さく呟く。

「それでね、思ったんだ。子供の頃の僕にとってアスカの存在はとても大きなものだったんだけど、それは今も変わってないんだって。アスカはすっかり逞しくなって、僕はすっかり頼りなくなっちゃったけど、でもやっぱりアスカはアスカで、僕は僕なんだよ。つまり、その……今の僕にとっても、アスカの存在はとても大きなもので……」

「だから、つまり何なのよ?」

「だから、その……今はまだよくわからないんだけど……たぶんきっと……僕はアスカのことを好きになる」

「……何よ、それ……?」

アスカはわかったようなわからないような複雑な顔をして、そしてクスクスと笑い出した。

「だから、絶対に義務じゃないよ。僕がアスカのことを守りたいと言ったのは、10年前の約束を思い出したからじゃない。10年前の約束があってもなくても、今の僕がそうしたいんだ」

「シンジがいくら守ってくれるって言ったって、きっとアタシの方が強いわよ」

アスカがニヤッと笑う。

「ふふふ。そうかもね。きっとアスカの方が強い……うっ」

思わず苦笑いした僕に向かって、アスカの鞄が飛んできた。
僕は顔を上げてアスカを見る。
アスカはやっぱり両手を腰に当てて、でもとっても嬉しそうな顔をして。

「これ、持って。さ、行くわよ。バカシンジっ」

クルッと踵を返すと、学校に向かってスタスタと歩き始めた。

「アスカ、ちょっと待ってよ!」





アスカの後を追いかけながら、僕は空を見上げる。
今日もいいお天気だ。




...終




あとがき

最後まで読んでくださってありがとうございました。
無事完結できて、ホッ。

連載の間に頂いたたくさんの拍手とメッセージ、感謝しております。
とても励みになりました。
みなさんのご期待に沿えるようなお話しが書けたかどうか、不安でいっぱいですが、
少しでもホンワカしてもらえていたら嬉しいです。





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