マンションとは別の方向に歩き始めた僕たちは、アスカの言う「丘の公園」を目指していた。
始めは順調に歩いていたアスカも、途中まで来ると道のりを思い出せなくなってしまったらしく、そこからは僕が道案内をすることになった。
そりゃそうだろう。アスカには小さな頃の土地勘しかないんだから。

しかし案内すると言ったものの、僕も少々困った。
こちら方面にはほとんどやって来ることがないため、実は少々不案内なのだ。
それでもおぼろげな記憶を頼りに、少しずつ目的地に近づいていく。

ここ何年も足が遠ざかっていた公園も、僕の思い出の中ではとても鮮明で。
それはアスカも同じなのかもしれない。
小さかった僕たちは、母さんに手を引かれてよく遊びに来ていたんだ。

小高い丘の上にあるその公園は遊具こそ少ないが、芝生の広場と色とりどりの花で溢れている花壇、そして小さな池やそこに架かる小さな橋なんかもある。
小さな僕たちは、時間の許す限り走り回った。
ボールを追いかけたり、ときには蝶を追いかけたり。
おもちゃを取られたと言ってアスカが泣いたのも、この公園だった。

アスカのことはほとんど覚えていなかったけど、ここで一緒に遊んだことだけは鮮明に覚えている。
丘の公園は、小さかった僕とアスカが一緒に楽しいときを過ごした思い出の場所なのだから。

「意外と近かったのね」

公園の入り口に立つと、アスカが目を細めて呟いた。
あんな遠くにあると思っていた公園が、実は徒歩で15分もかからない場所にあっただなんて。

「うん。子供の足だと、すごく遠く感じたのにね」

「それが10年経つってことなんじゃない?」

そう言ってアスカは僕を振り向くと、

「行くわよ」

なぜかひどく気合を入れた様子で歩き出した。

「見て見て! あの滑り台、あんなに小さかったんだぁ。わぁ、あのジャングルジム!!」

こんなにはしゃいでいるアスカを、僕は初めて見た。
それはとても嬉しそうに、とても懐かしそうに駆け寄る。
手を伸ばしてそれらに触れると、何かを思い出すように小さく微笑んだ。

「ねえ、覚えてる?」

「何を?」

「シンジの後を付いてジャングルジムに登ったまでは良かったんだけど、最後は下りられなくなっちゃって。この天辺で泣いてたら、シンジが一生懸命励ましてくれて。 アスカ、頑張れって。あと少しだから、頑張れって」

僕もジャングルジムに手をかけて、その天辺を見上げる。

「うん。そうだった。アスカはいつも僕の真似をするんだけど、最後は必ず泣いてたよね。無理しなきゃいいのに」

「だって……シンジと一緒に上りたかったのよ。シンジと一緒に天辺からの景色を見たかったんだから仕方ないじゃないっ」

アスカは頬をぷぅと膨らませて、僕を軽く睨む。

「ごめん。ごめん。でもさ、そんなに一生懸命登って、この上から何が見たかったのかな?」

「見てみましょうか」

「ちょ、ちょっと、アスカ」

言うが早いか、アスカはジャングルジムに足をかけて登り始めた。
小さな頃は必死にしがみついて登っていたジャングルジムを、今はヒョイヒョイと駆け上がり、あっという間に頂上へ手をかける。
いちばん上の棒に腰をかけ、アスカが僕を呼ぶ。

「アンタも登って来なさいよ」

「あっ、うん」

僕はなんとなく辺りをキョロキョロしてから、足をかけた。

「下から、覗くんじゃないわよ」

「何を?」

「スカートに決まってんでしょ、バカシンジ!」

「の、覗かないよ」

あらぬ疑いをかけられる隙を与えぬよう、僕は素早く頂上を目指す。
そうしてアスカの隣りに腰を下ろした。

そこから見た景色はとても大きかった。
丘の上の、さらにジャングルジムの上。
そこから見える景色は、広くて、大きくて、青くて。
手を伸ばせばこの空を抱えられるような気分さえする。

「あの頃見てた景色も、こんな風だったのかな」

「きっとそうよ」

「そっか。これを見たくて頑張って登ってたんだね、僕たち」

「あの頃はもっと小さかったから、こんなに遠くまでは見えなかったかもしれないけど、それでも少しだけ空が近くにあったのかもね」

「そっか……」

「さ、次行くわよ」

「えっ、次って……」

アスカはポンと足を蹴ると、ジャングルジムの頂上から飛び降りた。
下りられないと言って泣いていたアスカは、一体どこに置いてきたんだろう。
僕はクスリと苦笑いし、アスカに続いて飛び降りた。

「ずいぶんちゃちな橋ねぇ」

公園の奥で池に架かった小さな橋を見つけた。
今の僕たちが歩くと端から端までわずか10歩足らず。
でもあの頃は橋を渡るという行為が楽しくて、この小さな橋を何往復もしたんだよな。
この橋の上から池を覗くとけっこう色んな生き物なんかがいたりして、それもまた楽しかったんだ。

橋を渡りきったその向こう側には、たくさんのシロツメクサが咲いていた。
アスカはその中に分け入ると、中央辺りでしゃがみこむ。

「ここ、相変わらずクローバーだらけね」

そう言ってひとつ、またひとつと葉を掻き分ける。

「そういえば、二人で四葉のクローバーを必死に探したっけ」

この公園に足を踏み入れてからなんとなく感じていたことなんだけど、僕の遠い記憶は、遠いものではなくなっていて。
いろいろな思い出が蘇って来ていた。

「アスカはさ、何で四葉のクローバーが欲しかったの?」

「四葉のクローバーが欲しかったんじゃないわ。シンジと一緒に探すのが楽しかったから、欲しがっただけよ。今日も見つけられるかしら」

なんか……少しだけ気づいてしまった。
あの頃のアスカにとっては、僕の存在がいかに大きかったかということに。
そして僕は思い出してしまった。
あの頃の僕にとっても、アスカはとても大きな存在だったってことを。
目を凝らして小さな幸運を探している横顔を見ていたら、それは紛れも無い真実であったのだと思い知らされる。
薄ぼんやりとした遠い記憶ではなく、手を伸ばせば届きそうなほどに近くにある鮮明な記憶。
そんな大切な存在であったアスカのことを、<僕はどうして簡単に忘れてしまったんだろう。

幼い記憶は曖昧なもので。
決して僕の意思ではどうにもならなかったはずで。
だからそれはきっと仕方のないこと。

そんな想いを振り払うように、僕も屈んで四葉のクローバーを探し始める。
掻き分けて、掻き分けて。
こんなにたくさんあるのに、僕の目に映るのは小さな幸福にも満たない三枚の葉ばかり。
小さな頃はもっと簡単に見つけられた気がするんだけど。
10年の時は僕の目も曇らせてしまったのか。

「ドイツへ行ったとき……」

突然、地面に目を落としていたアスカが呟いた。

「シンジのいない場所で暮らすことになったとき、アタシ思ったの。どうしようって」

僕はゆっくりと顔を上げて、俯いたままのアスカの顔を覗き込む。

「こっちにいたときのアタシは、シンジに助けられてばっかりだったから。転んだときも、おもちゃを取られて泣いたときも、必ずシンジがそばにいてくれて……いつもシンジの後を追いかけたし、シンジと同じことをしたがった」

「うん」

「でもね、ドイツにシンジはいないのよ。シンジの代わりもいない。だからアタシは強くならなくちゃいけないと思ったの」

顔を上げたアスカは、横目で僕を見ると、

「アタシの回し蹴り、なかなかだったでしょ?」

そう言ってニヤッと笑う。
その悪戯っ子のような笑顔に、僕も釣られてフッと笑ってしまった。

「空手はいつから始めたの?」

「小学校に入ってすぐくらいかしら。その頃のアタシもやっぱり泣き虫で、よく泣かされてたのよねぇ。そんなアタシを、隣の家に住んでいた高校生のお姉さんがいつも慰めてくれたのそのお姉さんが、自分の通っている空手道場に連れて行ってくれたのがきっかけかな。ブラウンの長い髪を纏めて、細い身体で大きな男の人を投げ飛ばすの。すっごく格好いいんだから」

アスカは懐かしむように、空を見上げる。

「……アスカは強くなったね」

「当ったり前でしょ。アタシを誰だと思ってんのよ」

僕を振り返って微笑むと、アスカは徐に立ち上がった。
そのとき見た横顔を、僕は忘れない。
今まで見たどのアスカよりも、凛として美しかったんだ。

「そろそろ帰りましょうか」

「うん」

立ち上がった僕たちは、今までにないほど和やかな雰囲気で包まれていた。
いつも一緒にいたあの頃を思い出すような、これまでもずっと一緒に過ごしてきたような、そんな穏やかな時間だった。

こんなに昔のことを思い出して話をしたのは、アスカが日本に帰ってきてから初めてのことで。
昔の僕たちのような、お互いの存在がとても近くにあるような、そんな関係がきっとまたやって来る。
僕にはそんな予感がする。

他愛もない話しをしながら公園の入り口まで戻ったとき、アスカが急に立ち止まった。

「ね、私との約束、思い出した?」

そう言って振り向いたアスカは全然怒ってなんかいなかったから、だから僕は正直に答えた。

「ごめん……やっぱり思い出せなくて」

「そ。仕方ないわ。10年も前のことだもの」

そんな僕の返答にも、アスカはとても穏やかに微笑んで。
僕はこれからもずっとこんな関係でいられると信じていた。

「じゃ、アタシ寄るところがあるから、先に行くわね」

ポンポンッとアスカが2〜3歩前に出る。

「えっ、途中まで一緒に行こうよ」

「ううん、急ぐから先に行くわ」

「そう? じゃあ、気をつけてね」

「ええ」

アスカは歩き出し、4〜5歩進んでふと立ち止まった。
何かを考えているような数秒の時間のあと、僕を振り向く。

「シンジ」

「ん?」

「ばいばい」

「うん。また明日ね」

僕が片手を挙げるとアスカは嬉しそうにニコッと笑い、そしてクルッと向きを変えて坂道を駆け下りて行った。

ひとり残された僕は、空を見上げる。
眩しいほど鮮やかな青色だった空は、いつのまにかオレンジ色や藤色と混ざり合って美しい夕焼けを作り出していた。




...続く




あとがき

最後まで読んでくださってありがとうございました。
あんまり波風たってないけど、これでも一応佳境に差し掛かってますんでw

最終話も読んでくださいね。





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