「シンジ」
「なあに、アスカ?」
シンジは料理の手は止めずに、チラッと顔だけこちらに向けた。
いつもと変わらぬ声で、いつもと変わらぬ微笑みで。
でも今のアタシたちは、今までのアタシたちとは違ってる。
その微妙な関係の変化に気づいているのは、アタシだけではないはず。
シンジもそれに気づいていながら、気づかないフリをしてる。
大人になるっていいことばかりじゃないわね。子供の頃なら、こんな「フリ」はできなかったもの。
シンジもアタシももっと正直な感情表現しかできなかったから、だからお互いのことが手に取るようにわかってた。
なのに今はお互い隠すことを覚えて、隠してごまかして何事もなかったように振舞うことを覚えた。
その笑顔の下で、シンジは何を思ってるの?
「アタシ、まだ聞かせてもらってないわよ。岡田さんのこと何で黙ってたのかって」
「別に深い意味はないよ。ただ話すタイミングがなかっただけで」
シンジは前を向いたまま答えた。
「タイミングがなかった? そんなのウソだわ。理由はわからないけど、アタシに隠してたんでしょう? アタシに知られたくなかったんでしょう?」
「隠してなんかいないよ。話すつもりだった」
シンジは淡々と答える。
手も止めずに、アタシの顔を見ようともしないで。
「嘘よっ。だってヒカリだって鈴原から何も聞いていないって言ってたもの。シンジが鈴原に話してないはずないし、それを聞いた鈴原がヒカリに何も言わないんておかしいわよ。シンジが意図的に口止めしてたとしか思えないわっ」
真剣に取り合ってくれようとしないシンジに向かって、アタシは一気にまくし立てた。
「…………」
教えてくれないの?
「ねぇ、なんで?」
シンジはカタンと包丁を置いてアタシを振り返った。変わらない、静かな微笑みのまま。
「嘘じゃないよ。本当にタイミングがなかっただけだよ」
違う! アタシが聞きたいのはそんなことじゃない。アタシが見たいのは、そんな苦しい笑顔じゃないっ。
シンジはそれだけ言うと、アタシの前をサッと通り過ぎて冷蔵庫に向かった。
何だか悲しくなってきた。これがアタシたちの関係の限界、なのかな。深い絆なんて、夢だったのかな。
「じゃあ、急に別れたのはどうして?」
「それはアスカには関係ないでしょ? 僕と岡田さんの問題なんだから」
ズキン。アタシの耳にはそんな音が聞こえた。アタシの心臓が悲鳴を上げてる。
苦しいって。助けてって。
アタシには関係ない。シンジと岡田さんの問題。
確かにそうなんだけど、シンジの言う通りなんだけど、シンジの口からそういう言葉を聞くと、認めたくなかった現実を突き付けられたみたいですごく辛い。
アタシはゆっくりと目を瞑って、気持ちを落ち着ける。
まだ聞きたいことのひとつも聞いていないから。だからまだ折れるわけにはいかない。
再び目を開いて、シンジの背中を見つめた。
「シンジは、アタシがそばにいると、邪魔?」
「何でそう思うの?」
シンジは相変わらずアタシに背を向けたまま、心なしかいつもより低い声でそう聞いた。
「だってシンジはアタシに何も話してくれないじゃない。大切なこと、何も話してくれないじゃない」
「アスカは」
シンジがゆっくりと立ち上がる。
振り向いたシンジの目が、冷たい。
「アスカは何が言いたいの?」
「何って」
「僕が岡田さんのことを全部話せば気が済むの?」
「違うっ。そんなこと言ってないっ。アタシはただ」
「ただ、何?」
「ただ、昔はシンジのこと何でも知ってるって思ってたのに。なのに今はシンジのことが全然わからなくなっちゃって。それってすごく寂しいじゃない。アタシたちずっと一緒だったのに、寂しいじゃない。だから」
「アスカはわかってないよ。僕のことなんて、何もわかってない」
そう言ったシンジは、なぜかとても寂しそうな顔をした。
意味わかんない。シンジの言ってること、全然わかんない。なんでそんなこと言うの? なんでそんな顔するの?
今までのアタシとシンジの関係を全部否定されているみたいな気分で、アタシ泣きそう。
「アタシはどうしたらいいの? どうしたら昔のアタシたちみたいになれるの?」
「昔って?」
「一緒にごはん食べて、一緒にテレビ見て、たくさん話しして」
「だから今そうしようとしてたんじゃないか」
「違うっ。そうじゃないっ。アタシが言ってるのはそんな表面的なことじゃなくてっ」
「そんなの無理だよ」
「どうして?」
「…………」
「ねぇ、どうして?」
アタシから視線を逸らせたままシンジが呟いた。
さっきよりもっと低い声で。とっても、悲しい声で。
「アスカが悪いんじゃないか」
「アタシ? 何でアタシが悪いのよっ」
「僕は必死に諦めようとしてたのに。必死に我慢してたのに」
「何言って」
「アスカのためにって」
「何の話ししてるのよ?」
話の意図が見えないアタシに苛立ちが募る。
何でアタシが悪いのよ。何でアタシばっかり責めるのよ。何でアタシのことわかってくれないのよ。
アンタは昔からそう。いつだって人のせいにして、人のせいにすることで自分を守って、そうやって自分の殻に閉じ篭もって周りの人間を遠ざけて。
昔のままじゃない。結局、アンタは変われなかったんじゃない。何にも変わらなかったんじゃない。
こんなときでもアタシは相変わらずアタシで、この苛立ちをシンジにぶつけずにはいられない。
詰め寄って掴みかかって、そしてきっとアタシはシンジを責めてしまうんだ。
ずっと会いたくて、苦しくなるほど恋しくて、シンジのことばっかり考えてて、やっとシンジに会えたのに。
アタシがシンジに向かって足を踏み出そうとしたそのとき、不意にシンジの右手がアタシに向かって伸びてきた。
えっ? 何?
一瞬身構えたアタシを無視して、おそるおそる伸ばされた手。
その手が触れたのは、アタシの頬だった。
大きなシンジの手のひらがアタシの頬を包む。温かい。
突然のことに驚いたアタシが顔を上げると、シンジはやっぱり悲しそうな顔をして、
だけど少し微笑んで、アタシにこう告げた。
「僕がアスカのこと好きだって、知ってた?」
「えっ?」
「アスカのことがずっと好きだった」
シンジの目はすごく真剣で、たぶん嘘はついていないと思う。
でもアタシは戸惑いを隠せない。
本当は嬉しいはずなのに、そう言ってもらいたかったはずなのに、なのに素直に喜べない。信じられない。
「何、言ってるの? だってシンジ今までそんなこと」
「言えると思う? 断られるのがわかってるのに言えるわけないよ」
そう言ってシンジはアタシの頬から手を離した。
シンジの手が離れた頬が、なんだか寂しい。
「何で断られるって思うの?」
「だって、アスカは僕なんか見てなかっただろ? アスカにとって僕は家族以外の何者でもなかったんだから」
シンジの言うことは、正しかった。少し前までアタシはシンジのことなんか見てなかったから。
家族。それ以外の感情はアタシにはなかった。
だからシンジに告白されても、アタシきっと断ったに違いない。
シンジはアタシのこと、ちゃんと見てたんだ。アタシよりアタシのこと何でも知ってる。
だけどアタシは、シンジのこと何にもわかっていなかった。シンジの言う通りだった。
「だから」
シンジがアタシを真っ直ぐに見つめる。
その瞳に吸い込まれるように、アタシは目が離せない。
「僕は諦めようと思ったんだ。アスカに彼が出来たって聞いたとき、きっぱり諦めようと思ったんだ。アスカが幸せになれるならって、アスカがそれで幸せならって」
シンジが一歩、アタシに近づいた。
思わず顔を背けたアタシの目に映ったのは、ガラスに映る自分の姿だった。
そこに映っているアタシは、今にも泣きそうな顔をして。
本当は嬉しいはずなのに。シンジに好きだって言われて、嬉しいはずなのに。何でこんな顔しかできないんだろう。
「でもアスカが彼と肩を並べて歩く姿を想像しただけで僕は本当に、本当に辛くて、
諦めようって決めたはずなのに、アスカのためだってわかってるのに、それなのに苦しくて苦しくてたまらなくて」
シンジは俯いて、右手をギュッと握り締めた。
「そんなとき岡田さんに告白されたんだ。岡田さんて似てない? アスカに」
「…………」
とっても似てたわよ。アタシがムカつくくらい、似てたわよ。
偉そうなところも、生意気なところも、気が強いところも。
「アスカに似てたから。だから岡田さんと付き合ってみようって。岡田さんを大切にしようって。そうすればアスカを忘れられるかもしれないって」
「それで」
「えっ?」
「それで、忘れたの? アタシのこと」
「努力したんだ。一生懸命岡田さんのことを好きになろうって。それで好きになれるんじゃないかって思ったとき、アスカに押し倒された」
シンジがまた少しアタシに近づいた。
アタシとシンジの距離は、もうほんの少ししかなくて。
コツン。
つま先が、触れた。
たったそれだけのことなのに、ドキドキして止まらない。
「アスカにキスされて、やっぱり駄目だと思った。アスカを忘れるなんてことできないって」
気がついたらシンジがすごく近くにいて、見上げないとシンジの顔が見えないくらいに近くなってて。
不意にトンッとシンジが後ろの壁に右手を付いた。半身がアタシに覆いかぶさるように。
シンジの右手はアタシの髪の毛に触れそうなほど近くに置かれて、それはもう本当に息がかかるほど近く。
「逃げないの?」
シンジが耳元で囁いた。
...続く
あとがき
ドキドキドキドキ……
いよいよ次回、最終話。お楽しみに。