「逃げないの?」

壁に張り付けられたアタシは、足が固まったみたいに動けなくて。足だけじゃなくて、手も腕も。瞬きさえもできなくて。
それなのに、心臓だけはその鼓動を加速させて破裂しそうなくらいドキドキしてる。

「返事がないってことは、同意とみなすよ?」

返事をしないんじゃない。返事ができないの。声が、出ないの。

ドキドキしすぎて、口を開いてもため息さえも出てこない。

でもアタシはきっと、こうなることを望んでいたから。

シンジの顔が、また少し近づいた。

「キス、するよ?」

こんな状況でそんなこと聞くなんて、本当に馬鹿なんだから。

思わずアタシの口許がフッと緩んだのと、その唇にフワリと温かさを感じたのは、 ほぼ同時だったと思う。

温かくて柔らかくてとっても優しいその唇は、ほんの一瞬でアタシを虜にした。
唇を重ねるだけ。ただそれだけのキスだけどすごく気持ち良いい。
それなのにアタシがうっとりする間もなく、その唇は離れていった。

アタシは今どんな顔をしてるんだろう。きっと、アタシは。

吐息のかかるその距離で、少し屈んだその位置で、シンジがアタシを見つめてる。
アタシはそっと左手を伸ばすと、シンジのシャツをギュッと握りしめた。

きっとアタシは、キスしたいって顔してる。

その顔を見られたくなくて俯いて、でももっともっと近づきたいから、もっともっとキスしたいから、少しだけ上目遣いにシンジの瞳を覗き込んだ。

アタシを見つめるシンジと目が合う。
アタシの心を見透かすような、その視線。シンジはきっと私の考えてることなんてお見通しなんだ。
それなのにシンジはただアタシを見つめるだけで、アタシのことを射抜くみたいに、見つめるだけで。

キス、して欲しいのに。

シンジが少し笑ったような気がした。

「まだアスカの気持ち聞いてないよ?」

シンジのくせに。アタシの気持ちなんか、手に取るようにわかってるくせに。わざと言ってる。アタシがして欲しいこと、わかっててわざと。

「アスカは、僕のこと、どう思ってるの?」

「…………」

「言ってくれなきゃ、わからない」

そう言ったシンジは空いている方の手で、アタシの頭をフワッと撫でた。
思わずビクッとなったアタシをシンジが楽しそうに眺める。

その手はスッと顔を滑り下りると、無遠慮にスルスルと唇を行き来し始めた。
なんとも言えない不思議な感覚が、アタシを襲う。
背中がざわざわするような、頭がふわふわするような、でも嫌な感じは全然しなくて、それどころかもっと触って欲しい。
アタシには既にその誘惑に逆らう術はなく、波に飲み込まれないようにするのが精一杯だった。

「アタシは」

「ん?」

「アタシは」

「なあに?」

やっとの思いで言葉を紡ぐ。

「すき」

「ん、なあに? 聞こえない」

うそ。こんな近くにいて聞こえないはずないのに。
からかわれているのが悔しくて、でも熱に浮かされ始めたアタシは反論もできなくて、シャツを掴んだ左手に力を込めた。

早く。

「シンジのことが、好き」

「本当に?」

わざとらしく首をかしげたシンジが、アタシを覗き込む。

ねぇ、お願いだから。

「シンジのことが、好きなの」

「どのくらい?」

「どのくらいって」

「例えば世界でいちばんとか、宇宙でいちばんとか」

シンジの目が笑ってる。さっきより明らかに。
シンジがこんなに意地悪だったなんて、思わなかった。
そして、シンジのことを大好きになったアタシがこんなにも簡単にシンジにやり込められるなんて、思わなかった。

いじわるしないで。

アタシはもう我慢できないから、だから自分から催促する。

「いっぱい、キス、したいくらい好き」

それを聞いたシンジは、本当に嬉しそうな顔をして、

「わかった」

それだけ言うと再びアタシに唇を重ねた。
キスをしながら左手でアタシの腰を欠き抱く。
抱き寄せられたアタシの身体は、シンジの身体に添うようにぴったりと密着して。
でもそれでも、まだ足りない。もっともっとくっつきたい。
アタシは両腕を伸ばすと、シンジの首にしがみついた。

シンジの右手はアタシの身体を自由に動き回る。髪の毛をかきあげ背中に指を這わせて、アタシの自由を許さないほどきつく抱きしめる。

キスはどんどん深くなって、息も出来ないほどに、深く。
呼吸さえままならないのに、シンジは容赦なくアタシの口腔内を犯す。
アタシの舌に絡みつくシンジのそれは、驚くほど熱くて愛しくて、そして何より気持ちいい。

長い長いキスをして、そして気づいたときには。

アタシ、なんだか力が入らない。

自分の意志とは関係なく、アタシの膝がカクッと折れた。
シンジはアタシを支えながら、名残惜しそうに唇を離す。

「腰、抜けちゃったの?」

アタシは首をフルフルと横に振ったけど、そんなのに何の説得力もない。
だってアタシはもう、誰の目にも明らかなくらいとろけちゃってるから。

フワッと身体が宙に浮いた。またお姫様抱っこされてる。
あの時と同じように、シンジはアタシを軽々と抱えて。

でもあの時と違うのは、アタシがシンジを好きでたまらないということ。
シンジのシャツを握りしめる余裕もないくらい、アタシがとろけちゃってるということ。

そしてシンジの腕から下ろされたとき、アタシはもっとトロトロにさせられちゃうに違いない。

シンジに抱えられてると、シンジに包まれていると、シンジの温もりを感じていると、もっと欲しくなる。

そんなことを考えている間に、ベッドにそっと下ろされた。
シンジはアタシの上に覆いかぶさるようにしながら、艶っぽく囁く。

「好きだ」

アタシの唇に、小さなキスをひとつ落として。

「好きなんだ。アスカのこと」

またひとつ。
シンジの瞳は、とても甘い不思議な光を放って、アタシの思考を麻痺させる。
どんどんアタシをひきつけて、どんどんアタシを溺れさせる。

「アスカは本当に僕でいいの?」

「シンジが、いいの」

やっと気づいたの。シンジじゃなきゃ、ダメだって。
すごく時間がかかってすごく遠回りしたけど、この気持ちに偽りはないから。
その証拠に、シンジがそばにいないとアタシはアタシでいられない。

シンジはアタシの返事を聞いて、とても嬉しそうにそしてとても満足そうに微笑んで、アタシの唇を啄んだ。

「シンジは、アタシでいいの?」

シンジを見上げて呟く。

「アスカが、いいんだ」

シンジがアタシの頬を撫でる。それはもう、愛しげに。温かくて柔らかい、優しい眼差しで。

「アタシ、すごく生意気なのよ?」

シンジはクスクス笑うと、

「知ってる」

そう言って、アタシの額にフンワリとキスを落とした。

「アタシ、すごく気が強いし」

「知ってる」

左の瞼に口付ける。

「それに、お料理だってできないし」

「知ってる」

右の瞼に。

「それどころか、洗濯だって下手だし」

「知ってる」

鼻の上に。

シンジの唇が触れるたびに、アタシの身体が熱くなる。

「アタシ」

「もう、黙って」

シンジはおしゃべりなアタシの口をキスで塞いだ。
さっきとは違う、アタシの全部を吸い取られるような激しいキスで。

身を任せたアタシの中心が熱を帯びて、アタシは無意識に太股を擦り合わせた。
アタシの本能が言ってるの。シンジとひとつになりたいって。

「好き」

「僕も」

アタシを強く抱きしめるシンジの温もりに包まれて、アタシは人生でいちばん幸せな夜を過ごした。
繋いだ手が離れないように、熱い思いが冷めないように、アタシは何度も呟いた。


愛してる。




窓辺に座る私の上に、深い緑をすり抜けた陽の光がキラキラと降り注ぐ。

あれから3年の時が流れた。
あの日のことは、今でも昨日のことのように鮮明に思い出す。
アタシの人生を大きく変えた一日だったから。

シンジのことを愛しく思い、シンジの幸せを願い、そしてシンジの喜びがアタシの喜びとなった。

これが人を愛することだと、アタシに教えてくれた。
シンジは今。


時々思い出すことがある。
アタシをふった先輩のこと。
あのときアタシは一方的に彼を非難して腹を立てていたけど、でも今ならわかる。
アタシは何もしてあげなかった。彼に何もしてあげなかった。本気で好きになるという、そんな大事なことさえも。

岡田さんだって。
アタシはあのとき生意気で嫌な女だと思ったけど、でも彼女はきっと真剣に本気でシンジのことが好きだったんだって。
それを邪魔したアタシを嫌うのは、当然のことだったって。

本当にごめんね。

今はどこで何をしているのかわからないけど。
どうか幸せな未来を歩いていますように。


アタシは窓の外に目を向けて、青い空に浮かぶ小さな雲を目で追いかけた。
今のアタシはこんなにも穏やかな気持ちでいる。

こんな時間を想像さえできなかった昔のアタシは、もういないから。


トン トン トン


「アスカ、時間だよ」

そう言ってシンジがドアを開けた。それはもう眩しいほどの笑顔で。

「さあ、行こう」

シンジがアタシに手を差し出す。アタシは緩む頬を隠しもせず、シンジに歩み寄る。
そしてシンジの肩に手をかけて、アタシの口紅がシンジに移らない程度に小さく口付けた。

この笑顔が大好きで、この手が大好きで、この唇が大好きで、シンジを造る全てが愛しいから。

アタシは彼に未来を託す。

少しはにかんだシンジの手を取って、アタシは扉の外へ歩き出した。

白いドレスの裾をなびかせて。



...終




あとがき

最終話、いかがでしたか?
みなさんの期待通りのラストになっていたでしょうか?
期待はずれと言われても、ショックなのですが……

賛否両論あるとは思いますが、
ま、アスカさんの誕生日記念ってことで。

何はともあれ、最後まで読んでくださって、ありがとうございました。




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