ドクンと音を立てた心臓が、今度はミシミシと軋みだした。
心臓が石になったみたい。
早くこの場から立ち去りたいのに、身体が思うように動かない。

アタシの知らない名前。もう傍にいたんだ。アタシの知らない誰かが、もういたんだ。

だから昨日もあんなに怒って、アタシのことをあんなに必死に避けたんだ。
彼女がいるから、大切な彼女がいるから、アタシとなんかしたくないのね。大切な彼女のためにあんなに怒ったのね。

「いつから?」

「いつって?」

「その女とはいつから付き合ってんのかって聞いてんのよ?」

「あっ、あぁ。そうだな……ほらっ、ちょうど惣流が先輩と付き合いだした頃だよ。 あのすぐ後に告白されたって話、聞いたから」

顔色の変わった私を見て、佐藤はひどくうろたえた。

「なぁ、碇には俺から聞いたって言わないでくれよ」

「わかってるわよ」

声を絞り出すようにそれだけ言うと、アタシはやっとの思いで足を進めた。

「アスカ、大丈夫?」

中庭まで出て来ると、心配したヒカリがアタシをベンチに座らせる。

「大丈夫よ。ねぇ、ヒカリは……」

アタシは俯いたまま尋ねた。

「ヒカリは知ってたの?」

「ううん。私も今聞いてびっくりしたわ。鈴原も何も言ってなかったし」

鈴原とは、あのジャージのこと。大学が別々になった今でも、なんだかんだ言いながらみんなで集まってワイワイしてる。3バカトリオは相変わらず3バカで、そして現在は晴れてヒカリの彼氏。
この二人の馴れ初めは話すと長くなるからまた別の機会にするとして。ヒカリはその鈴原からも聞いていないという。
どうやらシンジは、アタシの耳に入りそうなところは口止めしてあったみたいだ。
そうまでしてアタシに隠す理由は、何なのよ?
怒りで手が震えてくる。

「アスカ、顔色悪いわよ。家まで送ろうか?」

「大丈夫だったら」

「でも」

「大丈夫だからほっといて!!」

「…………」

自分でも思ってみなかった大きな声に驚いた。
ヒカリはもっと驚いた様子で、アタシを見つめている。

「ごめん」

慌てて謝ったもののとても居たたまれなくて、アタシはヒカリから目を逸らした。
ヒカリは全然悪くないのに、大きな声出してごめんね。

でもアタシ、頭の中が混乱して何から考えていいのかわからない。

「うぅん。大丈夫ならいいの。私次の授業行くから、アスカも落ち着いたらおいでね」

「うん。ありがと」

アタシは目を逸らせたまま、力無く頷いた。
立ち去るヒカリの後ろ姿を眺める。どこまでも優しいその後ろ姿に、申し訳なさでいっぱいになった。
本当に、ごめんね。でもどうしていいかわからないの。本当にわからないの。

授業が始まって中庭に人影がなくなっても、アタシはその場から動けなかった。
本当に驚くと、人って放心状態になるのね。そんなどうでもいいことを考えていた。

そして段々落ち着いてくると、再び怒りが込み上げる。

今になってやっとわかった。シンジが、アタシを自分の家から遠ざけた理由。
彼に悪いから家に来るなって言ったくせに、アタシのために言ってるんだと思ってたのに、全部自分のためだったんじゃない。彼女を家に呼ぶための口実だったんじゃないっ。そうやって彼女のためにアタシを遠ざけて、アタシから離れたかっただけなんでしょう?


なんで、黙ってたのよ。


アタシは拳を握りしめると、ベンチに叩き付けた。
木製のそれは、自らをしならせて過剰な衝撃を吸収してくれたものの、それでも吸収しきれなかった衝撃音が静かに鈍く響いた。

悔しくて涙が零れそうだった。
でも今ここで泣いたらアタシの負けだ。絶対に泣かない。

最初からわかっていたことじゃない。いつかシンジがアタシから離れてくって。
わかっていたんだもの。
だからシンジに彼女がいたことは、どうでもいい。アタシは、シンジがアタシに隠し事をしていたってことが悔しいの。
家族だと思ってたのに。シンジのことは何でも知ってるって思ってたのに。

アタシはスクッ立ち上がると、目標に向かって歩き出した。
もちろんその目標とはシンジのこと。
本人に問いただすのよ。なんでアタシに黙ってたのかって。なんでアタシに隠してたのかって。

その人がそんなに大切なの?……って。

中庭を突っ切り第一校舎を抜けて、シンジが授業を受けているであろう教室を目指す。
確か今の時間は第三校舎の3階。
地響きがしそうな程足を踏み締めて、風を切って歩いた。

第二校舎と第三校舎を繋ぐ、2階の渡り廊下。
アタシはここから見える景色が好き。
高台に位置するため、遮る物は何もない。街の向こうには山が連なる。深い緑はなだらかな曲線をさらに際立たせ、その曲線は空の青と山の緑を見事に分ける。
そして見る度に刻々と色を変化させるその景色に、この風景さえもが生きているんだと実感させられた。

こんなときだってアタシはいつものように窓の外に目を向けて。

私は後悔した。こんなときくらい、前だけを向いて、歩いていればよかった。

窓の外を眺めたアタシの瞳に、黒い人影が映った。
表門からこちらに向かって歩いてくるその人は、あろうことか女と腕を組んで肩を寄せて。

「バカな男」

アタシはそれだけつぶやいて視線を戻した。

あれアタシの元彼。二股した挙句、昨日アタシをふったバカなヤツ。もう新しい女連れてる。本当にどうでもいい。バカなヤツ。

渡り廊下を渡りきると、目の前の階段に足をかけた。
目指す教室は3階。一段、一段、歩を進める。
一段、また一段。次の一段に足をかけて、そしてアタシは立ち止まった。


…………


アタシ、変だ。

元彼が新しい女を連れてるの見ても何とも思わない。
なのにシンジに彼女がいたからって、どうしてこんなに怒らなくちゃいけないのよ。
シンジこそ、彼女が居ようが居まいがどっちでもいいはずなのに。

なんでだろう。昨日別れたばかりの元カレに会っても、アタシ何とも思わない。
新しい女を連れてるの見たって、チクリとも痛くない。別にどうでもいいし、なんの興味も無い。

イイ男だったから、みんなに羨ましがられてすごく気持ちよかったから、だから告白されたとき私は迷わず「Yes」と言った。
アタシにはあのくらいのイイ男がお似合いだと思ったし。

でもなんでだろう。
好きだったかどうか、思い出せないや。

好きか嫌いかと言われれば好きだったと思うけど、別れてもどうってことなくて、二股をかけられていたことにムカつきはしたけど、寂しいとか悲しいとか辛いとかそういうのは別にない。

なのになんで。

なんでシンジに彼女がいるって聞いただけで、こんなに胸が苦しいんだろう。

うぅん、違う。この胸の痛みは、彼女がいたことに対する痛みじゃない。
シンジがアタシに隠し事をしていたことに対する痛みだ。
絶対にそう。絶対に。




何やってるんだろう、アタシ。




アタシはクルッと踵を返すと、階段を駆け下りた。



「ふぅ。重かった」

両手には、大きなスーパーの袋。中から肉やら魚、野菜やら調味料が顔を覗かせている。
それらをドサッとテーブルの上に載せると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してコクコクと喉を鳴らせながら飲み干した。

アタシはペットボトルを片手に持ったままエアコンのリモコンを探す。
テーブルの下に転がっていたリモコンを左足で手繰り寄せると、ペットボトルの底でボタンを押した。

モーターの鈍い音から少し遅れて、冷風がアタシの汗ばんだ身体に直撃する。汗による気化熱のせいで体感温度は冷蔵庫並だ。

「生き返る〜」

そんな決まり文句を口にしながら、アタシは部屋を見回した。

……もう、シンジの匂い、しないや。

アタシは空になったペットボトルをテーブルの上に置くと、部屋中の窓を全部開けて回った。エアコンの冷気がどんどん逃げて行くのも構わずに。

「シンジの運んで来た空気なんて、全部消えて無くなっちゃえ!!」

近くに置いてあった雑誌を手に取ると、バサバサと部屋中を掻き回すように大きく扇いだ。

この部屋の空気を全取っ替えするんだから。
シンジの匂いなんか、少しだって残ってたらダメなの。
だって、アタシはひとりで生きていくんだから。シンジに頼らなくったって全部自分でできるんだから。料理だって、洗濯だって、何だってアタシひとりでできるんだから。
シンジがアタシの前からいなくなる前に、アタシが先にシンジから離れてやるんだから。

寂しいって言ったって、そばにいてあげないんだから。

アタシは決めたの。もうシンジには頼らない。ひとりで生きて行く。


こんな風に思ったのは、ママが死んだあの日以来だった。



...続く




あとがき

またしてもシンちゃんの出番ありませんでした……
この先、シンジはちゃんと復活できるのでしょうか。
シンちゃん、カムバーック!!
どうやったらシンジが復活、活躍(?)できるか、思考錯誤中です。

第5話もぜひ読んでくださいね。




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