「うっ、頭痛い」
薄っすら目を開けると、カーテンの隙間から差し込んでいた月明かりは眩しい朝日に取って代わられていた。
まだぼんやりとした頭で昨夜のことを必死に思い出す。
居酒屋でシンジに愚痴をこぼしてたら酔っ払って、シンジがアタシを家まで送ってくれて、シンジにお姫様抱っこされて、なぜか急に悲しくなってシンジの前でいっぱい泣いて、シンジの手の温かさを感じてたらとっても寂しくなって、アタシはシンジを押し倒して。
そして……シンジはアタシに背を向けて出ていった。
どこまでが現実でどこまでが夢だったのか。
ところどころ途切れた記憶をひとつづつ並べてみる。
ふとベッド脇のサイドテーブルに目をやるとそこには空のコップ。
これ、シンジが持ってきてくれたお水だ。
夢じゃなかったんだ。アタシ、シンジを怒らせちゃったんだ。
あんなに怒ったシンジ、初めて見た。おまけに哀しそうな顔までして。
あんなに怒ることないじゃない。なんであんなに怒るのよ。
夢なら良かった。
そしたら全部無かったことにできるのに。
枕元に両手をつくとゆるゆると重い身体を起こした。
ベッドの縁に座ってボーッと視線を走らせる。
見慣れた自分の部屋なのにちょっとだけ空気が違う。
アタシの部屋なのにアタシの部屋じゃない感じ。
なんていうか、こう、いつもと違う空気が混ざっているというか。
……シンジの匂いがするというか。
ここでアタシは初めて気が付いた。この部屋にシンジが入ったのが初めてだってことに。
だって、いつもアタシがシンジの家に入り浸っていたから。
帰りは必ず家まで送ってくれるけど、でも決して部屋には入らない。シンジなりのルールがあるみたいで。
それなのに、初めてアタシの家に来た日にあんなケンカをするなんて。
アタシは呆れて苦笑いした。
カレンダーに目を向けると今日は火曜日。一限は必修。
やっぱり行かなくちゃダメだよね。
目覚まし時計のアラーム音が響くまでにあと30分くらいある。
アタシは手を伸ばしてまだ鳴っていない目覚まし時計を止めた。
バスルームでお酒の抜け切らない頭と身体に熱めのシャワーを浴びせる。
肌を打つ無数の滴のおかげで、少しずつ身体が目覚めるのがわかった。
曇った鏡をキュキュッと手で擦る。
「目、腫れてる」
鏡の中のアタシはとても不機嫌そうだった。重たくなったその瞼のせいで、アタシはとても寂しそうに見えた。
原因は昨日の号泣。
そうでないのなら、罰が当たったんだ、きっと。シンジをあんなに怒らせたんだから。
こんな顔で学校に行かなくちゃいけないなんて、最悪。
シンジには目が腫れてるの、見られたくない。それ以前に、顔合わせたくない。
でも、そんなの無理よね。だって履修科目はほとんど同じなんだもの。
なにも同じ学部に入ることなかったなと、今更ながらに悔やまれた。
アタシは日本に来る前、既にドイツで大学を卒業していたから、日本での大学選びは結構適当で、シンジやヒカリと同じ学校だったら楽しいかなって、それだけの理由でこの大学を選んだ。
学部を選ぶときもシンジと一緒なら何かと便利かなって、その程度の理由なのだ。
今思えば本当に浅はかだった。
でもそのときは、まさかこんなことが起こるなんて思わなかったんだもの。
アクシデントなんだから仕方ないじゃない。
そうよ! 昨日の出来事はアクシデントだわっ。
泥酔したアタシが、ちょっとシンジに絡んだだけ。
酔っ払いの戯言。悪い冗談。全部お酒のせい。アタシは悪くない。
だから昨日のことは全部忘れてって、笑って言えばいいんだわ。
そしたらシンジも笑って許してくれるはず。
「そんなことだと思ったよ」って。
やだ。アタシったら名案じゃない!
そうよね。それで完璧よね。それできっと上手くいくはずよ。
なんたってこのアスカ様のアイデアなんだもの。上手くいかないはずないわ。
そんな風にして自分を無理矢理奮い立たせた。
自分の妙案に励まされ気分が少し晴れた気がする。
髪の毛を洗って身体を洗って、自分を磨けば磨くほどどんどん心が軽くなる。
いつもより丁寧に丁寧に身体を洗って、昨日の嫌な思い出が一緒に流れてしまえばいいと、本気でそんなことを願っていた。
アタシの願いが通じたのか、身体が目覚めるのと反比例するように嫌な記憶はぼんやりと薄れていった。
でも目の腫れだけは簡単には消えてくれなくて、アタシの自慢の青い瞳はいつもの輝きを取り戻せずにいた。
アタシはバスタオルを身体に巻いたまま、キッチンへ直行する。
タオルを冷水で冷やし、もうひとつのタオルを熱めのお湯で温めると、それを交互に瞼の上に乗せた。
時間の許す限り、繰り返し、繰り返し。何度も、何度も。
十分も経っただろうか。
タオルを退けると腫れはだいぶ和らいで、いつものアタシの顔に戻っていた。
よかった。これならシンジに腫れた目を見られなくて済む。
いつもより念入りにいつもより明るめにメイクして、精一杯自分自身を応援した。
シンジに上手に謝れますようにって。
アタシ、がんばれって。
アタシが企てた言い訳大作戦。
それで全てが丸く収まるはずと、アタシにはなぜだか妙な自信があった。
アタシは教室に入るなり、入り口で辺りを見回した。必修の科目だけあって出席率も高く、その人数も数百人単位。この大きな教室の中からシンジを見つけ出すのは容易ではない。
とりあえず後方の席を確保すると、そこから教室全体を見渡した。
いつもならすぐに見つけられるはずのシンジの後姿がどこにも無い。
まだ来てないのかな。まだ怒ってるのかな。
不意に聞き慣れた声がアタシに向かって飛んできた。
「アスカ、おはよう」
「あっ、おはよう」
振り向くとヒカリが心配そうな顔で立っている。
ヒカリはスルスルとアタシの隣りまでやって来ると、座席に腰を下ろした。
「昨日は大変だったわね。大丈夫?」
心配してくれてたのね、ふられたこと。
「ありがと。でも大丈夫だから」
「そう? でもすごく沈んでるように見えたから。他に何かあった?」
「ないない。何にもないわ。いつもと同じよ」
アタシはあくまでも平静を装う。
本当はいろいろあったんだけど。
いくら相手がヒカリとは言え、アタシがシンジを押し倒したとは口が裂けても言えない。
アタシが押し倒されたんなら、話は別だけど。
そこはアタシのプライドが許さない。
「もしかして、碇君がいないから?」
ヒカリはニヤニヤしながら、肘で私の横腹を突付く。
「シンジ? 別にシンジがいなくたって関係ないわよ」
「そう? さっきからキョロキョロして探してるみたいに見えたけど」
そう言ってヒカリはクスクス笑った。
いつもは天使のようなヒカリが、今はなんだか小悪魔に見える。まったく憎らしい。
「べ、別にそういう訳じゃないわよ。ただちょっと話しがあったから」
「ふ〜ん。話しねぇ」
尚もヒカリはクスクス笑っていた。
「んもぅっ」
ヒカリのからかいにアタシはプウッと頬を膨らました。
頬を膨らませながらもアタシの目はシンジを探してる。
そんなアタシの様子に気が付いたヒカリが、心配そうにアタシを覗き込む。
「何があったのか知らないけど、困ったことがあったら話してね。アスカは何でも自分で抱え込もうとするんだから。そのための友達なんだから」
「うん。ありがと」
でもね、今回ばかりはヒカリにも話せないの。ごめんね。
これはアタシとシンジの問題だから。人の手を借りちゃいけない問題だと思うから。アタシが自分で解決しなくちゃいけないと思うから。
だけど、ヒカリが心配してくれてとっても嬉しいんだよ。
いつも私を応援してくれてとっても心強いんだよ。
「今はまだ無理だけど、話せるときが来たらそのときはアタシの話、聞いてね」
「もちろんよ」
ヒカリは優しく微笑んだ。
結局、授業が終わるまでにアタシはシンジを見つけられなかった。
見つけられなかったんじゃなくて、たぶん授業に出ていなかったんだと思う。
シンジが授業を休むなんてどうしたんだろう。
風邪でもひいたのかな。
アタシは少々落胆しながら立ち上がる。
授業終了と共に出口へ向かう学生たちで、教室内はひどくざわついていた。
後方の出口は大変な混雑だ。
アタシたちは多少遠回りになるが、前方の出口から出ることにした。
一段また一段と階段を下りる。
そしてあと数段というところで聞こえた声。何度も聞いたことのあるこの声。この声は。
聞き覚えのあるその声の主を振り向く。残念ながらそれはシンジ本人ではなかったけど、そこにいたのはシンジの友人だった。確か次の授業もシンジと一緒だったはず。
アタシは急いでそいつを捕まえた。
「佐藤っ」
「おおっ、惣流」
「ねえ、シンジ見なかった?」
「碇? 碇なら授業始まる前に岡田と出て行ったけど。そういえばあいつ戻ってこなかったな」
「岡田? 誰それ?」
「誰って碇の彼女じゃないか。なんだ惣流、知らなかったのか?」
ナニ、イッテルノ?
アンタ何言ってんの? 何の冗談?
碇の彼女? 碇ってシンジの? シンジの彼女? 何それ? 意味がわからないんだけど。全然わからないんだけど。
だってそんなの、アタシ、聞いてない。
アタシの心臓がドクンと大きな音を立てた。
...続く
あとがき
私の大好きなシンちゃん。今回は出番ゼロでした。
寂しいっ。(←自分で書いてるくせに。泣)
それにしてもアスカとシンジ、どうなっちゃうんでしょう。
ちゃんと仲直りできるでしょうか。
第4話をお楽しみに。