「ちょっと」
大学の講義を受けている僕の耳に、ささやくような声で呼ぶ女性の声が聞こえた。
「ちょっと、そこのアンタよ」
その声は僕の後方から聞こえてくるから、どんな様子なのかは見えないのだけど、彼女の呼び声から、少しだけイライラし始めているのがわかる。
「少しくらい振り向きなさいよ」
ささやき声が、少しずつ大きくなってきた。
誰だかわからないけど、早く振り向いてやれよ。テスト前のこの時期、テストに係わる重要な内容を聞き逃したらどうしてくれるんだ。
「ちょっと」
うるさいなぁ。何で名前で呼ばないんだよ。名前で呼べば一発で振り向くだろう?
「ちょっとアンタいい加減にしなさいよっ。何回呼んだら振り向くのよ!?」
我慢しきれなくなった彼女は、授業中にもかかわらず、ついに声を荒げた。
教室中の視線が、僕の後方にいるであろう彼女に集中する。生徒も教授も、もちろん僕も。
振り返ってみると、彼女は僕の右斜め後ろの席にいた。授業中だというのに立ち上がって片手を腰に当て、そして片手で僕を指差して。
えっ!? ぼ、僕っ!?
「そこの二人! 授業中だ。静かにしなさい」
マイクを通して教授から注意をされ、思わず「すみません」と頭を下げてしまった。
僕は全然悪くないのに、周りの学生の視線が僕に向けられる。すっかり共犯扱いだ。
っていうか、君、誰?
教授の一喝で彼女がしぶしぶ席に着くと、みんなの視線は再び教壇にいる教授に向けられた。
なんで僕が怒られなくちゃいけないんだ? 僕は抗議の気持ちを伝えるべく、ちょっと膨れた顔でキッと後ろを振り向いた。そんな僕の視線に気づくと、彼女は思いっきり不満そうな顔をして僕に冷ややかな視線を浴びせる。
一体何だと言うのだ。そもそも君は誰なんだ? 全く意味がわからない。何なんだよ?
これ以上こんな女に係わってられるか!
僕は苦手なこの英語の授業に集中する。必修である英語を落とすわけにはいかないのだ。
その後チャイムが鳴るまで、彼女は一度も僕に声をかけることはなかった。無事にテストの要点を聞き終え、ホッとしたのも束の間。立ち上がって彼女の前を通り過ぎようとしたそのとき、右腕をグイッと掴まれた。
「ちょっと待って」
「えっ?」
「ちょっと待ってって言ってるの」
先ほどの出来事もあってカチンと来ていた僕の口調は、ちょっぴり棘を含んでしまう。
「何の用? っていうか、君、誰? なんで僕が君に怒られなくちゃいけないのさ?」
「何よ、さっきのこと怒ってるの?」
「当たり前だろっ。なんで僕がみんなの前で君に怒られなくちゃいけないんだよ!」
「アタシが呼んでるのにアンタが振り向かないからいけないんじゃない」
「君のこと知らないんだから、呼ばれたって振り向くわけないだろ?」
「あら、アタシのこと知らないの? 外国から来たすっごい美人の編入生の噂、聞いたことない?」
「ないね」
そう言われてみれば、そんな話しをしていたやつがいたような気がする。艶々した金髪と透き通るように白い肌、綺麗な青い瞳に長いまつげ。この容貌では、噂になるのもわからないでもない。確かに彼女はとても美しかった。
でもとてもじゃないけど、今の僕にはそれを認める気持ちはサラサラない。初対面の僕に、わけのわからない言いがかりをしているヘンな女だ。見た目は良くても、性格が悪すぎる。
「じゃ、覚えてちょうだい」
だから、なんで命令形なんだよっ。
「なんで?」
「友達になりたいから」
はぁ? 全く意味がわからない。
「だから、なんで?」
「だって友達にならないと、アンタのそのノート貸してもらえないじゃない」
そう言って彼女は僕のノートを指差した。
ノートを貸して欲しい? これが人に物を頼む態度? 冗談じゃない。
「なんで僕が君にノートを貸さなくちゃいけないのさ?」
「だって周り見回したら、アンタのノートが一番綺麗なんだもの」
「いやだね。断る」
「なんでよ?」
「そもそも君のその態度は、人に物を頼もうっていう人間の態度じゃないよね?」
「じゃ、どうすれば貸してくれるのよ?」
「だから、僕は貸さないよ」
「うぅぅっ、ケチ!!」
あまりにも横暴な彼女の振る舞いを僕は腹に据えかねて、強引に彼女を振り切り教室を後にした。
本当なら僕はこういう揉め事、好きじゃない。慣れないことしたせいで、ドッと疲れてしまった。でも彼女のあの理不尽な態度だけは、どうしても許せなかったんだ。
僕が悪いんじゃないよね。さっきのは絶対彼女が悪い。
尚も怒りが収まらず、僕は膨れっ面のまま廊下を歩き出す。
「よぉ、碇。そっちも今終わり? ちょうどいいから、メシ行こうぜ」
たった今、隣りの教室から親友のケンスケが出てきたところだった。
「あ、ケンスケ……」
「碇にしては珍しく、ずいぶん不機嫌そうな顔してるな」
学食の窓際のテーブルでA定食のポテトコロッケを頬張りながら、ことのあらましをケンスケに説明する。話したからどうってわけじゃないんだけど、でも人に話を聞いてもらうっていうのはやっぱり気持ちを和らげる効果があるのではないかと思う。
ケンスケは「ふんふん」と頷き、時にメガネをちょっと持ち上げながら僕の話を聞き終えると「噂の美女の裏の顔かぁ」週刊誌も真っ青、かなりの情報通を自負しているらしいケンスケは、面白いネタを仕入れたとばかりにとても満足そうな顔をしていた。
「でもさぁ、惣流さんはどうして英語のノートなんか借りようとしたのかな?」
「惣流さんて、彼女のこと?」
「何だよ、碇。名前も知らなかったのか?」
「知らないよ、名前なんか」
「惣流・アスカ・ラングレーってのが彼女の名前。あの外見で惣流っていうからにはハーフかなんかだと思うけど、そこまで詳細な情報はまだ入手できていないんだなぁ」
「それで日本語がペラペラなのか」
「でもさ、外国育ちらしいし、わざわざ碇からノートなんか借りなくても、彼女、英語しゃべれるんじゃないのか?」
それもそうだ。彼女はどっからどう見ても外国人だし、本人も外国からの編入生だと言っていたじゃないか。他人の英語のノートなんか必要ないはず。それなのに僕に何の恨みがあって。
「噂をすれば、なんとやら」
ケンスケがそっと目配せする先に渦中の人物がいた。トレーを手に抱えたまま空席を探してキョロキョロしている。
「惣流さん! こっち空いてますよ」
何を思ったのか、突然自分の隣りの席を指差してケンスケが声を上げた。
「ケンスケ! なんで彼女を呼ぶんだよっ」
「こういうチャンスは有効に使わないとね。あんな美人と仲良くなれるチャンスなんてそうそうないからな」
「僕の話聞いてなかった? 見た目は良くても、彼女の性格は最悪」
「アタシの性格が何ですって?」
ガタンと音を立ててA定食の載ったトレーをテーブルに置き、僕をキッと睨む。
「別に」
僕の気のない返答に腹を立てたらしい惣流さんは、フンッと顔を逸らせて席に着いた。
「まあまあ、二人ともそんなに揉めないで」
自分で彼女を呼んでおいて、ケンスケは勝手なことを言う。
「僕は相田ケンスケ。さっき君に怒鳴られたコイツは碇シンジ。よろしくね」
「ふ〜ん、よろしく」
彼女は特に興味もない様子でケンスケに向かって軽く頷くと、箸を器用に使って、真っ先にポテトコロッケを口に頬張った。
そのときの顔がなんだか可笑しくて、僕は思わずクスッと笑う。
「何? 今アタシ見て笑わなかった?」
「別に〜」
僕は相変わらずツンとしたまま、素っ気無い返事をした。
でもね、可笑しかったんだよ。あまりにも嬉しそうな顔してるから。教室で悪態をついていた彼女からは想像できないような嬉しそうな顔で、コロッケを頬張って。
面白いやつ。口は悪いけど、もしかしたらそんなに悪いやつじゃないのかもしれない。
「惣流さんは、いつからこの学校に通ってるの?」
ケンスケが早速リサーチを開始する。
「ん? そうねぇ、もうすぐ3週間になるかしら」
「そうなんだ。惣流さんは日本に来る前、どこに住んでたの?」
「ドイツ」
「へぇ、ドイツかぁ。じゃあドイツ語は話せても、英語は苦手とか? あぁ、それで碇にノート借りようとしたのか」
「まあ、ね」
惣流さんはチラッと僕を見ると、また皿に視線を戻した。
「惣流さん、学部はどこなの?」
すると惣流さんは再び僕のことをチラッと見て、そしてすぐに皿に視線を戻す。
「そこの誰かさんと一緒よ」
惣流さんの視線に合わせてケンスケも僕を見ると、
「そうなんだぁ。碇と同じ学部だったのか〜。ときどき碇の教室覗いてたのに、どうしてこんな美人に気づかなかったんだろう?」
今までのことを思い出すように首をひねった。
「でもさぁ、惣流さんは碇が同じ学部だってよくわかったね。必修の授業なんかは、いろんな学部のやつがいるじゃない?」
「だ、だって、必修じゃない授業の教室でも、ときどき見かけるもの」
へぇ、そうだったんだぁ。同じ授業受けてたのか。全然気づかなかったな。
「碇〜、惣流さんがお前のこと知ってるのに、碇が惣流さんのこと知らないっていうのはどういうことだよ? いくらなんでも碇は興味のないことに無関心すぎ」
ケンスケが呆れたように僕を見た。
「そんなこと言ったって」
図星をつかれて、思わず言葉に詰まる。確かに僕にはそういうところがある。
ひとつのことに集中するというか、それ以外のものが目に入らないというか。ケンスケの言うとおり、もう少し周囲の状況に特に関心を持って過ごしたことはないかもしれない。でもケンスケのようなゴシップ好きではないから、僕の無頓着さは普通だと思うのだけど。
「惣流さんもなんでわざわざ碇のノートなんか借りようと思ったの? 惣流さんならノート貸してくれる人、たくさんいるんじゃない?」
”碇のノートなんか”で悪かったな、と思いつつ、僕もその点は大いに疑問に思っていたところなので静かに彼女の回答を待つ。
「ん? あぁ。後ろから覗いたら、そこの誰かさんのノートがいちばん綺麗だったのよ」
サラダのミニトマトを箸で挟むのに苦心しながら、彼女はしれっとして答えた。
つるつるとトマトが箸をすり抜ける。箸で食べ物を突き刺してはいけないというマナーは知っているらしく、あくまでも箸で挟んで持ち上げようとしているのがいじらしい。
「あのさぁ、そこの誰かさんていう呼び方、やめてくれないかな」
何回目かのチャレンジのあと結局箸を諦めて人差し指と親指でミニトマトを口に放り込んだ彼女を見ながら、僕はいよいよ反撃する。
「じゃあ、何て呼べばいいわけ?」
「さっきケンスケが言ったの聞いてなかった? 碇シンジって名前」
「名前で呼べばいいのね?」
「そうしてもらえるとありがたいね」
嫌味たっぷりに言ったにも係わらず、彼女は意に介さずといった感じで「ふ〜ん」と言いながらポテトコロッケの片割れに箸をかけた。
「おいおい二人とも、せっかくこうして知り合いになれたんだから仲良くやろうぜ」
険悪な雰囲気に耐えかねてケンスケが仲裁に入るが、この行為にどれだけの力があるのかは定かではない。
「そこの誰かさんが英語のノートを貸してくれたら、仲良くしてあげてもいいけど」
「だから、そこの誰かさんていう呼び方やめてくれって言ったじゃないか」
「あら、ごめんなさい。じゃ、言い直すわ」
そう言うと彼女はわざとらしく僕に向き直った。
「そこのバカシンジが英語のノートを貸してくれたら、仲良くしてあげる」
「バカシンジってなんだよっ」
嫌なやつ。本当に頭にくる。どこまで僕を馬鹿にしたら気が済むんだ!? 僕が君に何をした?
「バカだからバカだって言ってるだけじゃない」
「じゃあ、バカからノートなんか借りる必要ないよな。英語のノートは絶対に貸さない」
「そういうところがバカだって言ってるのよ。ガキじゃあるまいし。いいわ。じゃあこうしましょ。あなたが私に英語のノートを貸してくれたら、アタシがドイツ語教えてあげる」
「うっ」
痛いところを突かれた。僕は成績は悪い方ではないと思うけど外国語の授業というのがどうしても苦手で、中でも第二外国語であるドイツ語の授業がいちばんの苦手科目。前回のテストでは散々な結果を修めてしまい、今回のテストにかけている。
うちの学校では前期と後期のテストの間に、必修科目に限って中間テスト的なものが数回行われることになっている。僕は前期のテストの失敗をこのテストで取り戻そうと必死なのだ。
僕が返答に窮していると、ケンスケがこれ幸いと横から口を挟む。
「碇はドイツ語教わった方がいいんじゃないか? この前のテスト、あれヤバかったんだろ?」
「そうだけどさぁ」
ノートとの交換条件とは言え、この女に教えてもらわなくちゃいけないなんてなんか腑に落ちない。僕のプライドが許さないと言った方が正しいか。いまいち乗り気じゃない僕にケンスケはさらに畳み掛ける。
「単位落としたら、また来年もやらなくちゃいけなんだぜ。ドイツ語」
それは確かにそうなんだけど、でもなんかなぁ。納得いかないなぁ。
「それにさ、せっかく惣流さんと友達になれるチャンスじゃないか。頼むよ、碇」
なんだ、そういうことか。こんな女と友達になりたいだなんてケンスケはやっぱり変わってる。
まあ、いいか。この取引は僕にとっても決してマイナスではなさそうだし。
「わかったよ。ノート貸すよ。貸せばいいんだろ」
「悪いな、碇」
僕も現金なもので、苦手なドイツ語を教えてもらえると聞いてからというもの、先ほどの教室での出来事がどうでもいいことのように思えてきて。それでも彼女の言いなりになるのは悔しかったからしぶしぶといった顔をして鞄から英語のノートを取り出し、彼女の前にツイッと突き出した。
「はい。これでいいんだろ? 英語のノート」
「サンキュ〜」
彼女はノートを受け取ってそのまま自分の鞄に差し込むと、何食わぬ顔でご飯を口に頬張った。
「ちゃんとドイツ語教えてくれるんだろうね?」
「失礼な言い方ね。それじゃあまるでアタシが嘘つきみたじゃない」
「そうじゃないけど、さっきの件で、僕の君への信頼はゼロに等しいから」
「ほっんとに細かい男ねぇ。これだから日本人は」
自分の失礼な振る舞いを棚に上げて日本人の批判までしてる。なんて女だ。やっぱりノートなんか貸すんじゃなかった。
「わかったわ。じゃあ日にちを決めましょ。テストは再来週だからそんなに時間はないわよね。アンタのドイツ語のレベルがわからないと何とも言えないけど。期間はアタシがノートを返すまで。放課後図書室で毎日1時間。どう?」
「わかった。でも僕も勉強しなくちゃいけないから、ノートは早めに返してよ」
「あら、早く返しちゃったらドイツ語を教える期間も短くなるのよ?」
「それはそうだけど」
「安心なさい。テストまでには返してあげるから」
「当たり前だよ」
「良かったな、碇。これで再テストはなんとか免れるんじゃないか? それにしても惣流さん、碇がドイツ語をとってることよく知ってたね。惣流さんもドイツ語とってるの?」
僕は全然気づかなかったけど、ケンスケがもっともな疑問を口にした。惣流さんはドイツから来てわざわざドイツ語の授業を選択してるんだろうか? 僕もケンスケと同様に首をひねった。
「とってないけど、た、たまたまよ。たまたま。このまえドイツ語の授業終わりに教室から出てくるシンジを見かけたから」
「そうなんだぁ」
僕は自分が目立たないタイプだと思ってたから、そんな風に度々惣流さんの目に留まっていたことに少なからず驚いた。そして僕より確実に目立つタイプの惣流さんに全く気づいていなかった自分にも驚いた。
「そいじゃ」
「えっ?」
ケンスケが突然立ち上がった。
「そいじゃ、そろそろ行くわ。自好のやつらがあそこに集まってるみたいだから」
「えっ、行っちゃうの?」
惣流さんと二人残されてしまうことに心細さを感じた僕は、小さな声で無駄な抗議をしてみる。
「あぁ。自好の集まりがあったの、すっかり忘れてたわ。じゃあな、碇。惣流さんも、また一緒にランチしましょうね」
「えぇ」
それだけ言うと、ケンスケは軽く右手を上げて席を離れていった。
険悪な感じの二人が残されて、なんとなく空気が重たい。明日からの放課後は毎日、この重たい空気の中で苦手なドイツ語を勉強しなくてはならないのか。僕は選択を間違えてしまったかもしれない。
さっきまでのちょっと浮かれた気持ちはどこへやら。急に両肩に重石を乗せられたような気分になった。
「ねぇ」
そんな僕の不安をよそに、惣流さんはさっきと何ら変わらない様子で僕を呼ぶ。
「”ジコウ”ってなあに?」
どうやら彼女はさっきケンスケが言った”自好”という言葉の意味が分からずに、
首をひねっているようだった。
「あぁ、”自好”っていうのは、ケンスケが所属しているサークルの『自衛隊愛好会』のことだよ。それを略して”自好”って呼んでるんだ」
「へぇ、変わってるのね」
「はは。そうかもしれないね」
心底不思議そうな顔をしている彼女がおかしくて、僕は思わずクスリと笑った。
続く...