駅で綾波と別れた僕らは、家に向かって歩き出した。アスカが前を、僕は少し後ろを。

 その距離はちょうど僕とアスカの関係を表しているようだった。

 アスカはいつも僕の前を歩いている。アスカにとって、僕の背中を追いかけるなんてことは考えられないんだろう。そして、僕もあえてアスカより前に出ようなんて思わない。誰かの後をついて行く方が楽だから。

 後ろにいる僕には、アスカが何を考えているのかわからない。なぜなら、後ろからはアスカの顔が見えないから。そして、前にいるアスカにも僕の気持ちはわからない。アスカは決して後ろを振り向かないから。

 これが今の僕たちの関係。そんな二人がお互いを理解できるわけがない。

 ミサトさんは僕たちを仲良くさせるために今日という日を仕組んだらしいけど、はっきり言って失敗だ。仲良くなるどころか、僕らは相容れない関係なんだと痛感させられただけじゃないか。

 きっとアスカもそう思っているに違いない。その証拠にアスカはあれから一言もしゃべらない。

 僕は微妙で絶妙な距離を保ったまま、アスカの後ろを歩く。少し傾き始めた太陽の光がアスカの後ろ姿を照らし、アスカの髪がキラキラと光った。



 ボツポツと歩く。アスカに追いつかない速度で。アスカを刺激しない間隔で。アスカを見失わない距離で。

 僕はこうして、いつまでもアスカの背中を見ていればいい。ただ黙ってその後について行けばいい。そうすれば誰からも責められないし、誰にも嫌われないで済む。

 そのときだった。コンフォート17マンションが見える場所まで来たとき、アスカが突然振り向いた。

「ついて来ないで」

 ついて来ないで? 同じ家に住んでいるんだから、同じ道を歩いて帰るのは当たり前のことなのに。僕には家に帰って来るなって言いたいのか?

「別について行ってる訳じゃないよ。同じ家に帰るんだからしょうがないじゃないか」

 アスカの勝手な言い分に流石にムッとした僕は、少し語気を強める。
 一体何が気に入らなくて、そこまで言われなくちゃならないんだ。僕が一体何をした?

 アスカはフンッと鼻で笑うと、うるさいとばかりに僕を無視して歩き出した。

 ひとり残された僕は、ふぅっとため息をひとつついて空を仰ぐ。太陽が傾き始めた空は、薄い紫色やオレンジ色に少しずつ侵食されているようで、さっき新横須賀で見た海のように濃く深い青ではなくなっていた。

 僕は再び歩き出す。ただ、さっきのような歩き方ではない。
 わざとアスカを追い抜くような速度で。アスカを無視した間隔で。もうアスカとの距離なんかどうでもいい。

 怒りたいなら怒ればいい。これが僕のささやかな抵抗なんだから。君は僕がこれ以上の反抗をしないことを、知っているだろう?

 また少し足を早めると、すぐにアスカに追いついた。僕は一瞬隣りに並んだアスカを完全に無視して、スッと前へ出る。続けざまに足を前へ出し、ついにアスカを追い抜いた。

 僕は歩みを止めない。振り返らない。僕はわざとアスカに僕の後ろを歩かせる。きっとこれが、何よりもアスカには堪えるはずだから。

「待ちなさいよ」

 ほら、効果覿面だ。
 僕は聞こえないふりをして、尚も前に進む。

「……くせに」

 アスカが何かをつぶやいたみたいだけど、僕はもうアスカのつぶやきが聞こえない場所まで来ているらしい。

「待ちなさいよっ」

 ここで立ち止まったら意味がない。ここに来るまでアスカが僕を無視し続けたように、僕も家に着くまでもうアスカには関わらない。たまにはアスカも僕と同じ目に会えばいいんだ。

「待ちなさいって言ってるでしょ!」

 歩みを止めない僕の背中に、ドンッと何かがぶつかる衝撃を感じた。

 驚いて振り向くと、アスカが自分の靴を手に握りしめて僕を睨みつけている。
 アスカの手には靴は片方しか握られておらず、どうやらもう一方が自分に投げつけられたようだった。

 僕の背中に当たって転げ落ちたスニーカーは、アスファルトの上で行き場を失ってなんだか寂しそうに見えた。

「何するんだよっ。痛いじゃないか!」

「どうせアンタも私アタシのことを邪魔だと思ってたんでしょ? アタシさえいなきゃファーストと仲良くできるのにって思ってるんでしょ?」

「何の話だよ? それとこれとは関係ないだろ」

「邪魔者扱いするアンタが悪いんじゃないっ」

「そんなこと言ってないじゃないか!」

「言わなくたってわかるわよ」

「何がわかるんだよっ」

「言われなくたってわかるって言ってるの!」

「だから、何言って」

「今までもそうだったもの! みんな、そうだったもの!」

 それは僕が戸惑うほど怒りに震えていた。
 アスカにそんな過去の記憶があるっていうのか? 怒りに震えるほどの苦い記憶が。

 アスカは勉強もスポーツも得意だから、そんなのとは無縁だと思ってた。エヴァだって誰よりも上手く操縦できるし、いつだって自信満々だったじゃないか。
 アスカが人から邪魔だと思われてる? 違うよ。邪魔だと思われてるのは、アスカじゃなくて、僕だよ。

 僕は返答に詰まり、思わず目を伏せた。

 アスカは僕の返答を待っていたようだけど、何を言うべきなのかわからない。「そんなことないよ」って慰めればいいのか? でもそんなことをしたら、アスカはもっと怒るだろう。
 僕はどうすべきなのか。

 無反応な僕に業を煮やしたらしいアスカは、スニーカーを握りしめている手にもう一度を力を込め、自分の足元にたたき付けた。

「アスカ」

 アスカはたたき付けたスニーカーには目もくれず、裸足のまま歩き出す。

「アスカ!」

 僕の呼びかけを無視して歩き出したアスカが、その後僕を振り返ることはなかった。



「ただいま」

 返事なんかないのはわかっているけど、わざといつもより少しだけ大きな声を出した。アスカが部屋に篭っていても聞こえるように。

 僕の背中とアスファルトに叩き付けられたアスカのスニーカーは、僕の手によって玄関にきちんと並べられた。主に捨てられたスニーカーたちは帰るべき場所に戻ることができて、ホッとしているに違いない。

 あの後、アスカが靴を拾いに戻ることはなかった。たいした距離ではなかったけど、裸足で歩いたりして怪我はなかっただろうか。
 気にはなったものの、わざわざアスカの部屋の戸を叩いてまで確認しようとは思わなかった。

 アスカがいないことを確認してからリビングへ入る。今はアスカと顔を合わせる気分じやない。
 陽が傾きかけたリビングは少し薄暗かったけど、僕は電気も点けずソファーに倒れ込んだ。

 疲れた。

 ソファーに全身を預けたのも束の間、ベランダに干してある洗濯物が目に入った。
 こんな時くらいもう少しそのままにしておいても良さそうなものだけど、気づいたと同時に身体がベランダへ向かう準備を始めている。
 哀しいかな。主夫の習性か。

 重い身体をゆるりと起こしてソファーに座り直すと、僕はふうっと大きな溜息をついて立ち上がった。

 カラカラカラカラ

 聞き慣れた音を伴って窓が開く。僕はこの家で、何度この音を聞いたのだろう。
 そんなことを考えながら、窓からいちばん近くにある洗濯物を取り込もうと手を伸ばした。

「なんでファーストが桔梗なのよ?」

「うわあぁぁぁぁぁッ!!」

 突然自分の足元から響いてきた低い声に、僕は文字通り飛び上がった。

「ファーストを花に例えるなんて、アンタも物好きね」

 振り向いた僕の目に映ったのは、ベランダの隅で膝を抱えて座っているアスカだった。自分から声をかけたくせに、顔は下を向いたまま。アスカは僕の驚きなんてまるでなかったように、淡々と話し続けた。

「あ、アスカっ、な、なんでここに」

「なによ。ここに居ちゃ悪いわけ?」

「いや、そうじゃないけど」

 ベランダの隅に座ったまま、ギロッと僕を睨む。

「ファーストのどこが桔梗に見えるのよ」

「えっ?」

「桔梗に似てるんでしょ?」

「あ、ああ。なんていうか、その、桔梗の花って小さいのに凛としてるっていうか。花の色が綾波の髪の色に似てるっていうか」

「ふ〜ん」

 てっきりまた嫌みを言われると思ったから、アスカのその短い返事に驚いた。でも不機嫌になって無視されるよりはマシか。アスカの機嫌を損ねる前にさっさと洗濯物を取り込んで部屋に入ろう。
 僕はもう一度手を伸ばし、目の前のバスタオルに手をかけた。

「アタシ」

「あ、これ? アスカのだよね? 今日使う?」

 ちょうど僕が手にしていたのは、アスカのバスタオルだった。水玉模様のグリーンのバスタオル。アスカのお気に入りらしい。
 僕は何の疑問も持たずにそう答えたんだけど、なんか間違えたのかな? アスカにキッと睨まれた。

「アンタばかぁ? 誰もバスタオルの話なんかしてないわよっ」

「えっ、違うの?」

「そうじゃなくて」

 アスカはヨイショと立ち上がりお尻をパンパンと掃う。そうして身体はそのままに顔だけ僕の方に向けた。

「アタシは何の花?」

「何が?」

「何がってアンタ」

 ズズッと僕の目の前まで来たアスカは、大きな瞳で僕の目を覗き込む。僕はその威圧感に思わず後ずさりしたのだけど、そんなことアスカにはどうでもいいみたいで僕から目を離してくれない。

「ファーストは桔梗の花に似てるんでしょ? じゃあアタシは何なのかって聞いてるのよっ」

 あのときは桔梗の花を見てたからなんとなくイメージできただけで、花も無いこんな場所でそんなこと急に言われても。

「あぁ、えっと、そうだな」

 何か言わなきゃいけないのはわかってるんだけど、全くいい言葉が浮かばない。

「アスカはえっと」

 あぁ、ダメだ。アスカの顔が強張ってきてる。早く何か答えないと。さっきは靴で済んだけど、今度は何が飛んで来るかわからない。

「何?」

「だから、えっと」

 ただならぬ空気を感じた僕は、ベランダに投げられる可能性のある危険な物がないか目で探る。

「アンタ、もしかして」

「な、なんだよ」

「アタシには例える花もないって言いたいわけ?」

 アスカの声がまた一段と低くなった。

「ち、違うよ。アスカはあの花だよ」

「あの花って、どの花よ?」

「あれだよ、あれ!」

「あれって何よ?」

「あ、そうだ! ヒマワリだよ!」

 さっきあの公園で、自分より背丈の高いヒマワリをじっと見つめていたアスカを思い出した。

「ヒマワリ?」

「うん。ヒマワリ」

 きっとアスカはヒマワリが好きなんだよね? 好きな花ならいいよね?
 これならアスカも納得してくれるだろうと僕は自分の答えに満足し、それと同時にホッとした。

 今のうちに洗濯物を。

「何で?」

「えっ?」

「何でヒマワリなの?」

「えっ!?」

 驚いて素っ頓狂な声を出してしまった。理由なんて考えてないよ。ただアスカが好きなんだろうなって思っただけで。
 ヒマワリがアスカに似ているかって? そんなのわかんないよ。

 僕は公園で見たたくさんのヒマワリを思い浮かべる。

「ヒマワリは」

 アスカが恐い顔でこっちを見てる。

「ヒマワリは、いつも太陽に向かって大きく花を広げてるんだ。どんなに強い陽射しでも、決して顔を背けないで。それから」

「それから?」

「ヒマワリはそこにあるだけで、周りをパァッて明るくしてくれる。小さな太陽みたいに、周りを明るくしてくれるんだ」

 僕はもう一度さっき見たヒマワリを思い浮かべる。
 ヒマワリはスクッと立って、まるで私を見てと言っているかのように花を目一杯広げ、力強くそこに立っていた。

 思い出そうとすればするほど、アスカとヒマワリが重なって見えてくる。
 僕の急場しのぎの発想もあながち間違ってはいないのかもしれない。

 力強くて、自信家で、どんなに強い敵にも決して背を向けない。
 僕がヒマワリを見たときに感じたことと、僕がいつもアスカに対して感じていたことは、きっと同じだ。

 いつも胸を張って、堂々としていて。僕はヒマワリにはなれないって思った。僕はアスカみたいにはなれないって。

 アスカはもう何も言わなかった。返事もしない代わりに、反論もしない。ただ静かに僕のことをじっと見つめている。
 ついに答えを見つけた僕も、なんだか急に心が穏やかになって、アスカの大きな瞳にも怯まずアスカの顔を静かに見つめた。

「アスカはヒマワリみたいな人だね」

 自分の言葉を自分で噛み締めるように、ゆっくりと声に出して言う。いつも全力で太陽と向き合うヒマワリと、いつも全力で生きてる君は、とてもよく似ているよ。
 アスカのことがほんのちょっとだけわかった気がして、僕は小さく微笑んだ。

「なに笑ってんのよ」

 僕が微笑んだことに気づいたアスカは急にうつむいて、またベランダの隅に戻って行った。
 アスカは何も言わなかったけど、僕はそれで満足だ。アスカが初めて僕の言葉に耳を傾けてくれた一瞬だから。

 アスカはベランダの隅で膝を抱えて座っている。アスカが何を考えているのか僕にはわからないけど、怒ってないことは確かだった。
 怒っているときのアスカは、僕がそばにいることを嫌うから。だからまだここにいるってことは、アスカは怒っていないんだ。

 アスカは俯いたままだけどそれでもいい。僕はもう一度アスカを見遣ると、アスカに向かって大きく微笑んだ。

 さぁ、洗濯物を片付けよう。
 僕はさっきより幾分薄暗くなった空を見上げて、また微笑んだ。

 僕が洗濯物を取り込んでいる間中、アスカはとうとう顔を上げなかった。膝を抱えて俯いたまま、微動だにしない。
 最後の一枚を取り込み、部屋に入ろうと背を向けたそのとき、アスカが何かを呟いた。

「えっ?」

 声が小さくてよく聞こえなかったから、僕は上半身だけベランダに大きく乗り出して、アスカの言葉を待つ。

「何?」

「アタシ」

「うん」

「花の中では」

「うん」

「ヒマワリがいちばん好きよ」

 そう言って、アスカがニコッと微笑んだ。
 アスカがあんまり優しい言い方をするから、僕を見て微笑んだりするから、自分のことを言われたわけじゃないのにカァッと顔が熱くなった。
 当の本人はそんなことには全く気づいていない様子で、空を見上げている。

「うん」

 勝手にひとりで真っ赤になってる僕には、そう答えるのが精一杯だった。

 でもいいんだ。そのとき見たアスカの横顔がなんだかとても嬉しそうで、とても満足そうだったから。
 僕にはそれだけで十分だ。

 これからはきっと、僕たちもっと仲良くなれるよね? 
 


***



 どのくらいこうしていたのだろう? アスカの右手を握ったまま、僕はゆっくりと身体を起こした。

 時間も日にちも、それどころかここがどこなのかさえわからない。ただわかっていることは、この世界に残されたのは僕とアスカしかいないってことだけ。
 
 この後、僕たちはどうなるんだろう。この暗闇に、また太陽が昇ることはあるんだろうか?

「アスカ」

 僕は隣りに横たわっているアスカを小さく呼んだ。

「アスカ」

 返事なんかしてくれないことはわかってるけど、呼ばずにはいられないんだ。

「ねえ、アスカ!」

 どんなに大きな声で呼んでも、アスカの返事はない。
 それどころか僕の声は大地に吸収されてしまい、かえって辛い現実を突きつけられるだけだった。

 アスカも知ってるだろ? 僕の思い出を共有したんだから。僕があのときどんな気持ちでいたのか、アスカは知ってるだろ? 僕も知ってるんだよ。アスカの思い出を共有したんだから。アスカがあのときどんな気持ちで僕に微笑んだのか、僕は知ってるんだよ。
 あのときあの一瞬だけは確かに同じ気持ちだったって、これからはきっと仲良くなれるに違いないって、僕たちはそう感じたじゃないか。

 お願いだよ、アスカ。返事をしてよ。
 いや、返事なんかしてくれなくたっていい。ただいつものように僕を睨みつけるだけだっていいんだ。僕はアスカが生きていてくれるだけでいいから。それだけでいいから。

 反応のないアスカの顔をしばらく見つめ、そしてもう一度アスカの隣りに横たわった。
 空は相変わらず漆黒の闇と無数の星で埋め尽くされている。

「いつかまた、一緒にヒマワリの花を見られる時が来るかな?」

 僕は顔だけ左側に向けて、アスカを見る。

「いつかまた、アスカが笑ってくれる時が来るかな?」 

 瞬きさえしないアスカを見るのが辛くなって、僕はまた顔を上げて空を見た。

「僕は待つよ。アスカに赦してもらえる日が来るまで、アスカに笑ってもらえる日が来るまで。僕はいつまででも待ってる」
 
 明日さえも保証されていない僕たちの未来なんか、誰にもわからない。
 でもね、僕は決めたよ。

 僕は絶対に、もう一度キミの笑顔を見るんだ。
 自分を奮い立たせるように、アスカの手をギュッと握り締めた。

 アスカは何も言わないけれど、僕の顔を見ることさえしないけれど、僕はハッキリと感じていた。
 小さく動いたアスカの指先を。そしてその指先から伝わる、微かな希望を。




...終


あとがき

実にお久しぶりの短編になりました。いかがだったでしょうか?
ほんのちょっぴりでもホンワカしていただけたら嬉しいです。

久しぶりすぎて、あとがきに何を書いていいものやら。。。。w





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