ついに来たわよっ。今日という日が!
アタシがどれだけこの日を待ち望んでいたか。日本て地味な国だと思っていたけど、こんな素敵な日があるなんて、なかなかやるじゃない。

今日は何の日かって?
『 ひなまつり 』よ。『 ひ・な・ま・つ・り 』!

ミサトに聞いたところによると、この日は女の子の日で男の子は何でも女の子の言うことを聞かなきゃいけないらしいじゃない? こんな絶好のチャンスを無駄にする手はないわっ。

シンジにね、アタシの恋人のシンジにね、そ、その、き、キスしてほしいの。
だってシンジったら、付き合うようになってから手をつないだり、抱きしめたりはしてくれるようになったのに、なぜかその、キスだけはしてくれないの。なんで?

やっぱりトラウマになっちゃってるのかな? 前に鼻つまんで無理矢理キスしたこと。
あのときアタシったらキスの後にすごい勢いでうがいしたり、悪態ついたり。そりゃシンジにしてみればショックよね。


自業自得とは言え、本当にアタシのバカッ!!


ま、過ぎたことを悔やんでも仕方ない。とにかく今日という日を無駄にしちゃいけないわ。いくわよっ!!


「ねぇ、シンジ。今日って何の日か知ってる?」

アスカはソファの背もたれから身を乗り出して、キッチンで昼食を作っているシンジに尋ねた。

「今日? 3月3日……あっ、ひなまつりだね。そっか。僕は今までひなまつりなんてお祝いしたことないけど、アスカもミサトさんもいることだし、せっかくだからごちそうでも作ろうか」

「ホント? じゃあ、ハンバーグね」

「ハンバーグ? ハンバーグならいつも食べてるじゃないか。今日はもっと別のものにしたら? せっかくのひなまつりなんだから」

「いいのっ! アタシがハンバーグって言ったら、ハンバーグなのっ!! だって今日は女の子の日なんでしょう? 女の子の言うことは何でも聞かなきゃいけない日なんだってミサトが言ってたわよ」

「えっ!? そうなの? それミサトさんが言ったの?」

「そうよ。シンジ、日本人のくせに知らなかったの?」

シンジにはアスカにデタラメを教えて楽しんでいるミサトが、はっきりと目に見えるようだった。
今日は仕事で空になっているこの家の主の部屋をチラッと見遣る。

「あっ、そうだね。そうだったね。じゃあ今日はハンバーグにしよう」

シンジは苦笑いしながらも、嬉しそうに話すアスカを見て今日はアスカの言う『 ひなまつりのルール 』を尊重することにした。

「じゃ、お昼食べたら、買い物に行って来るね」

「アタシも行く!」

「そう? じゃあ一緒に行こうか。アスカのリクエストも聞きたいし」

そう言ったシンジは昼食作りを再開すべくキッチンに向き直る。
そしてトントントンと包丁を数回鳴らすと、何かを思いついた様子でいったん包丁を置いてアスカを振り返った。

「ねぇ、アスカ」

「なぁに?」

「今日は僕はアスカの言うことを何でも聞かなくちゃいけないんでしょう?」

「そうよ」

「何か欲しいものとかある?」

「そんなの別にないわよ。欲しいものは別にないけど、してほしいことはあるかな」

ハンバーグを主張していたときとは打って変わって、やっと聞き取れるほどの小さな声。あまりの分かりやすい変化に、普通なら「どうしたの?」と気になるところだが、そこは超が付くほどの鈍感なシンジはまったく気づいていない。アスカの弱点であるさわやかな愛らしい笑顔で聞き返すのだ。

「してほしいことってなあに?」


うっ、またその笑顔で。なんてかわいい顔で笑うのかしら。その顔されるとなんだか恥ずかしくなって言いたいことも言えなくなるじゃない。


「そ、それは、き、き、き」

「き??」

「き、黄色いバスタオル、使いたいからあとで用意しておいてちょーだい」

「花の刺繍がしてあるやつ? ごめん。さっき洗濯しちゃったんだ。今日は他のを使ってくれる?」

「そう、しょうがないわね」


って、ちがぁーーーーーうっ!! アタシが言いたいことはバスタオルの話しなんかじゃな〜い!!


「それより、き、き」

「??」

「キッチンからオレンジジュース持ってきて」

「うん。お安いご用だよ」

シンジは冷蔵庫を開けてオレンジジュースを取り出した。


だから、ちがうんだってばぁ! 「キスして」なんてたったの4文字じゃないっ。 なんで言えないのよぉぉぉぉぉぉ!!!


カタンと音をたてて、アスカの前のテーブルに冷たいオレンジジュースの入ったコップが置かれた。

「はい。どうぞ」

「ありがとう」


い、言えないっ。キスしてなんて恥ずかしくて言えないっっっ。


「アスカ、顔赤いけどどうしたの? 大丈夫?」

「な、何でもないわよ。暑いのっ。そう、暑いのよ! だからオレンジジュース持ってきてもらったんじゃない」

「クーラーもっと強くしようか?」

「しなくていい。それよりお腹空いたから、早くお昼の支度してちょーだい」

「そう? じゃ、僕急いでご飯作っちゃうね」

いそいそとキッチンに戻るシンジの後姿を見て、アスカは小さくため息をついた。



「ひき肉に玉ねぎとニンジン、それから……ねぇ、アスカ。ハンバーグとシーフードサラダとかぼちゃの冷製スープを作ろうかとおもうんだけど、他に何か食べたいものある?」

外のギラギラした太陽の日差しから逃れるように飛び込んだ別世界のように涼しいスーパーの野菜売り場で、シンジはニンジンを手に取りながら隣にいるアスカにたずねる。

「デザート食べたい。とびっきりおいしいやつ!」

「うーん、そうだなぁ。じゃあ、洋ナシのコンポートなんかどう? パイとアイスクリームも一緒に」

「うん。それいい。ふふふ」

「あとは?」

「あとはシンジのき、き」

「なに?」

「き、切干大根が食べたい」

「へ!? 切干大根?」

「そうそう。切干大根」

「アスカ、切干大根なんかよく知ってるね」

「う、うわさで聞いたのよ。うわさでね」

「切干大根の噂って、アスカっていつも洞木さんとどんな話してるの?」

「いろんな話しよっ。いろんな話し! いいでしょ、別に」

「ふ〜ん。今日のメニューにはちょっと合わないけど、アスカが食べたいなら作ろうか」

「うん。お願いね」

そう言ってアスカは赤くなった顔をシンジに見られまいと、シンジの先をズンズン歩いていった。


チッ、またしくじったわ。どうしてさりげなく言えないのかしら。こんなことくらいで緊張しちゃうなんて、アタシらしくもない。普通にしなくちゃ。普通に。


「シンジ、あとでチョコレートも買ってね」

「うん。お肉見てからでもいい?」

「忘れないでよ」


アタシたちって、どんな風に見えてるのかしら?

幸せそうに見えてるわね、きっと。


「ねぇ、シンジ」

「なぁに?」

「こうして二人で買い物していると、なんか新婚さんみたいじゃない?」

「えっ、な、何言ってるんだよ」

アスカの思いがけない発言に、シンジは赤くなった顔でキョロキョロと辺りを見回した。

「だってアタシたち、たぶん、とっても幸せそうに見えると思うもの。アタシはシンジと二人でこうして一緒に買い物が出来るだけで、すごく楽しいし幸せだわ」

「うん。そうだね。僕もアスカと二人でいると、すごく楽しいし幸せだよ」

アスカは赤くなりながら、自分の腕をシンジの腕に絡めた。

「僕がんばっておいしいもの作るからね」

「期待してるわよ。さすが主夫ってところを見せてよね」

「なんだよ、それぇ」

二人は顔を見合わせて笑った。たわいもないことで笑い合える、そんな相手が当たり前に傍にいてくれる幸せを実感していた。



「ごちそうさま〜。あーおいしかった」

「ミサトさんも一緒に食べられたら良かったのにね」

「仕方ないわよ。ミサトは仕事なんだから。書類の山に埋もれてるんじゃない? あのだらしない性格じゃ書類の山で遭難してるかもね」

「あっ、あり得るかも」

くしゅんっ、とミサトのくしゃみが聞こえるような気がする。
シンジが食器の後片付けを始めると、アスカはソファに座ってテレビをつけた。


あと約5時間か。今日が終わっちゃう。どうやったらシンジは気づいてくれるかしら。ううん、だめね。超鈍感なシンジだもの。キスして欲しいってこと、ハッキリ言わなきゃわからないわよね。


テレビはついているがアスカの目には映っていない。残された5時間を頭の中でシュミレーションするのに忙しくて、他のものは目に入っていなかった。
だから当然、シンジが近くに来ていたことも全く気づいていなかった。

「アスカ、アスカっ、どうしたの? ボーっとして」

「えっ? あ、あぁ、シンジ。後片付けは?」

「もう終わったよ」

そう言って、シンジはアスカの隣に腰を下ろす。

「テレビ、見てたんじゃなかったの?」

「あぁ、テレビね。あんまり面白くなかったから、他のこと考えちゃってたわ」

「そう? それよりアスカ」

「なに?」

「ひなまつり、あと4時間ちょっとで終わりだよ。何か頼み事があれば今のうちに聞いておくよ」

「頼み事って」

「だってアスカってば、今日は僕がなんでも言うこと聞かなきゃいけない日だってはりきってた割には、特に何もお願いされなかったから。なんだかもったいないじゃない? 何かないの?」

「それは、ないこともないけど」

「なあに? 今なら何でもお願い聞いちゃうよ」

「でも、いいわ。たいしたことじゃないから」

「せっかくのひなまつりなのに?」

「いいの! たいしたことじゃないもの」

「そっか。じゃ、はい、これ」

そう言うとシンジはポケットから小さな箱を取り出した。

「何、これ?」

「開けてみて」

アスカが赤いリボンを解いて箱を開けると、そこには赤い石のついたシルバーのネックレスが入っていた。

「これ、どうしたの?」

「さっき買い物に行った時に、内緒で買ってきたんだ」

「買い物に行った時? あっ、そういえばシンジ一人でトイレに行くって」

「そう。その時にこっそり買ってきたんだ。アスカのお願い事の代わりと言ってはなんだけど」

「あ、ありがとう」

「気に入ってもらえるかな。安い物で悪いんだけど」

シンジは照れ隠しに頭を掻いている。

「うん。ありがとう。すごくうれしい」

アスカはシンジの背中にそっと手を回して抱きついた。そしてシンジにもたれかかったまま、小さくつぶやく。

「本当はね、あるの。シンジにしてほしいこと」

「そうだったの? なんだ。早く言ってくれれば良かったのに。なぁに? 僕にしてほしいことって」

「その、キス」

「えっ!?」

「キス、してほしい」

「えっ、それって」

「だから、シンジとキスがしたいの」

「どうして、そんな、急に」

「全然急なんかじゃないわ。アタシはずっとそう思っていたもの。でもシンジったらそういうことしてくれる気配ないし」

「だって、それは」

「アタシのこと、嫌い?」

アスカはシンジの胸から少しだけ顔を離すと、上目遣いにシンジを見上げた。

「嫌いだなんて、そんなことあるわけないじゃないか。アスカは、僕でいいの? そのキスの相手が僕でいいの?」

「当ったり前じゃない。アタシが好きなのはシンジなのよ。シンジじゃなきゃダメなの。シンジがいいの!」

「そっか。ありがとう」

そう言ってシンジはアスカの瞳を覗き込みながら微笑んだ。

「それで、どうなの? アタシのお願い、聞いてくれるの? くれないの?」

「僕は……僕もアスカとキスしたい」

「じゃ、決まりね」

嬉しそうにニコッとすると、アスカは静かに目を閉じた。


シンジの心臓、ドキドキしてる。アタシのドキドキも伝わってるわね、きっと。それはアタシとシンジが同じ気持ちでいるってことの証。アタシはシンジが大好きで、シンジもアタシが大好きで、その気持ちの証だって思ってもいい?


シンジが一瞬ためらったような気配がしたが、アスカの腰に回された手に力が入ってグッと抱き寄せられた。そして二人の唇が重なった。
温かくて、やわらかくて、胸の奥がキュっとなった。
さっきまでの心臓の早鐘は、今は何事もなかったように静まり返っている。


なんか、すごく落ち着く。


どのくらいたったのか。アスカには永遠にも続く長い時間のように感じたが、おそらく十秒くらいの短い出来事。

「はぁ」

シンジから離れた唇から、小さなため息が漏れる。
すっかり力の抜けてしまったアスカはシンジの胸に体を預けて寄り掛かった。そんなアスカをシンジはギュッと抱きしめると、アスカのやわらかい髪を優しく撫でる。

「アスカ、大好きだよ」

「アタシも。ねぇ、シンジ。アタシ、キスがこんなに気持ちのいいものだなんて知らなかった」

「ふふ。僕も」

「ねぇ」

アスカは目をとろんとさせたまま顔を上げると、甘えるようにシンジの目を覗き込む。

「もうひとつ、お願いがあるの」

「なあに?」

シンジもこれ以上ないくらいの優しい瞳で、アスカを見つめる。

「もっとキスして。今日だけじゃなくて、これからもたくさんキス、して」

「僕もしたい。」

そう答えたシンジの顔がゆっくりとアスカに近づく。二人は再び唇を重ねた。先程よりも、深く、深く。

アスカの唇を割って、シンジの温かくて少しぬるっとした舌が入ってきた。シンジはアスカの舌を探す。アスカはシンジの舌を追いかける。

「ん……んふぅん……」

ときどきアスカの口から漏れる小さな吐息が、二人をさらに熱くする。お互いの舌が絡み合い、そこから溶けてひとつになってしまうのではないかという錯覚すら覚える。

そうして長い時のあと、二人はどちらともなく唇を離した。
お互いの唇を、キラキラと透明な糸が繋ぐ。まだ離れたくないという、二人の気持ちを代弁するかのように。

「ん……はぁ……気持ちいい……」

シンジにもたれかかったアスカが、熱い息を吐き出しながらつぶやいた。

「なんだか、溶けてシンジとひとつになっちゃいそうな気がした」

「僕も。キスしただけなのに溶けちゃいそうだった」

そう言いながら、シンジはアスカを抱く腕に力を込めた。

「もう少しでひなまつり、終わっちゃうね」

「うん。ひなまつりって、素敵な日ね」

「僕にとってもね」

アスカは起き上がってシンジの隣りに座りなおすと、シンジの腕に自分の腕を絡ませてシンジの肩に頭を乗せた。

「来年のひなまつりは、シンジに何をしてもらおうかしら?」

「えっ!? 来年もあるの?」

「当たり前でしょ。ひなまつりは毎年あるんだから。でもきっと、シンジにとっても素敵な日になるはずよ。きっと。ね」

「ふふ。きっとそうだね」

シンジはアスカの頭の上に、さらに自分の頭を乗せて寄り掛かる。
一秒でも長くこの余韻が続くようにと。


...終


あとがき

今回はラブラブモードで書いてみましたが、いかがだったでしょうか?
ちょっとドキドキして、胸がキュッとなって、
そんな感じで読んでもらえたら、私としては大成功です。
少しでも楽しんでいただけたらうれしいです。




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