トントントントン
キッチンから規則正しいリズムが聞こえてくる。
料理上手ならではの、一定のスピードと間隔を保った何かを刻む包丁の音。そしてそこから漂ってくる香ばしい香り。当たり前の日常がもたらす幸せ。
まさに今それを満喫している少女がいた。アスカである。
そしてその幸福の発信源は、彼女の愛するシンジに他ならない。
アスカはソファに寝転がって雑誌をめくっていたが、頭にはほとんど入っていない様子だ。なぜならキッチンに立つシンジの後姿に見とれていたのだから。
あぁ、格好いいなぁ。シンジってなんであんなに格好いいんだろう。別に男らしいとかそういうんじゃないんだけど、なんていうか優しいっていうか、とにかく素敵なのよねぇ。って、いやいや、そうじゃなくて。
一人で赤くなって頭をブンブン振った。
今日の夕食はなにかしら? 楽しみ♪ シンジって何を作っても上手なのよねぇ。アタシもそろそろお料理とか勉強したほうがいいのかなぁ。
「これアタシが作ったの。どうかしら?」
「アスカは頭もいいけど、お料理もとっても上手なんだね」
「そんなことないわよ」
「そんなことあるよ。こんなに可愛い上に料理も上手だなんて、僕はなんて幸せ者なんだろう」
「やだ、シンジったら」
「いや、本当のことだよ」
「本当に?」
「本当さ」
「うれしいっ!」
「アスカ」
「シンジ……」
見つめあう二人、そして吸い寄せられるように近づく唇……
きゃぁっ!!! 恥ずかしいっ!!! でもでも、こんなのもありよねっ。やっぱりアタシもお料理勉強しようかなぁ。
妄想中のアスカさん、相変わらず視線はシンジに向けたまま一人で赤くなってニヤニヤしながら、クッションを抱きしめていた。
「痛っ!!」
「どうしたの、シンジ?」
突然シンジが声を上げた。シンジにしては珍しく、手を滑らせて包丁で指を切ってしまったのだ。遠目に見ても、左手の人差し指に血が滲んでいるのがわかった。
「アスカ、悪いんだけど、ちょっと絆創膏取ってもらえないかな。ちょっと指切っちゃて」
「ちょっと待ってて」
愛するシンジの一大事とばかりにソファから飛び起きて、救急箱を取りに向かったのかと思いきや、なぜかアスカが向かった先はキッチンだった。
「アスカ、救急箱はキッチンじゃないよ。廊下の収納棚だよ」
「わかってるわよ。それより指、見せて」
アスカはおもむろにシンジの指をつかむと、突然パクッとその指をくわえた。
「えっ、えっ、アスカ? 何やってんの?」
シンジは真っ赤になってアスカの突然の行動に目を見張った。
「何って、消毒」
アスカは何食わぬ顔で続ける。大卒のアスカが、医学的になんの根拠もないこの消毒を行う理由、それは別のところにあるようである。
あぁ、一度これやってみたかったのよねぇ。ほらアタシ、なんだかドラマの主人公みたいじゃない? 怪我をした恋人とのもとに駆けつけて傷口をなめるって、恋人同士の王道よねぇ。
本当は蛇にでも噛まれてくれれば、もっと雰囲気出たんだけど。
アスカの妄想のために蛇に噛まれるなんて、そんなことシンジがお断りである。
一人シンジの指をくわえて夢見心地のアスカを尻目に、シンジはどうしていいか分からずにその場でオロオロしている。
それでシンジはこのあと言うのよ。
「アスカ、君の消毒のおかげで、傷がひどくならずにすんだよ。ありがとう」
「いいの。そんなこと気にしないで。アタシ、シンジのためならなんだって」
「うれしい! アスカ」
「シンジっ!」
そして抱き合う二人。後は神様のみぞ知る……なぁんてね。
「フフフフ」
シンジの指をくわえたままおかしな笑い声まで上げている。そんなアスカを見て恐ろしくなったのか、真っ赤なままのシンジがついに口を開いた。
「あの、アスカ……もういいよ。あ、ありがとう」
「えっ、もういいの? こういうのはちゃんと消毒しておかないといけないのよ」
「もう大丈夫だから。ありがとう」
チェッ、な〜んだ、つまんないの。せっかく楽しんでたのに。まあ、いいわ。また次の機会を狙ってと。
アスカがいらぬ妄想と計画を立てているため、シンジは結局自分で救急箱を取りに行く羽目になったとか。
数日後、シンジが夕食の支度をしているとアスカが部屋から飛び出してきた。
「シンジ、シンジ〜!」
「どうしたの、アスカ?」
「紙で切っちゃったのよぉ、ここ」
そう言ってアスカは右手を差し出した。
「どこ?」
「ここよ、ここ」
シンジがアスカの右手を取って見ると、中指の第二関節辺りが斜めに切れていた。
「あ、本当だ。紙で切ると痛いんだよね。今絆創膏持ってくるからちょっと待っててね」
廊下に向かって歩き出したシンジだが、何かに引っ張られるような感じがして振り向いた。
なぜかアスカがシンジのシャツの裾を捕まえている。
「なに、アスカ? 早く絆創膏取ってこないと」
「ちょっと待って。その前に」
「その前に?」
「はい」
アスカは自分の右手をシンジの顔の前に持ち上げた。
「はい?」
「だ〜か〜ら〜、アタシがこの前やってあげたでしょ、消毒」
そう言うなり、突然強気な態度が影を潜めてなぜか急にモジモジし出した。
「だから、シンジにも……その……消毒して……ほしい」
アスカは耳まで真っ赤になりながらそれだけ言うと、やや俯きながらシンジの顔を覗きこんだ。シンジの顔も真っ赤である。どうしていいのかわからないといった様子で、アスカの指を見つめていた。
「僕がするの?」
「他に誰がいるのよ」
「で、でも」
「早くしなさいよ」
「う、うん。でも」
「シンジはアタシの傷が治らなくてもいいの?」
「そんなことないよ。でも」
「でもも、すもももないわよ。早く」
シンジは一瞬躊躇ったが、アスカの右手を取ると思い切って口を開けた。
パクッ。
そしてシンジ君、しばし思考停止。そんなシンジの様子を見たアスカは、真っ赤になりながらもご満悦である。
シンジが、シンジがぁぁぁぁっ!!! きゃぁ、恥ずかしいけど、うれしいぃぃぃぃっ!!! これでアタシたち本物の恋人って感じよね。
違うと思いますが。
ううん、間違いなくこれが正しい本物の恋人同士の姿よ。シンジに舐めてもらったら痛みなんて忘れちゃう。って言うか、これって、これって気持ちいい。
なんなのこれ? 恥ずかしいけどずっとこのままでいてほしいっていうか、すごく気持ちいい。
「アスカ、もういい?」
恥ずかしさの限界に襲われたシンジが、アスカの指から口を離した。
「ダメっ!!!」
「えっ!?」
あまりにも緊迫したアスカの返答に、シンジは仰け反った。
「だ、だから、まだ痛いの。あともう少しだけ」
「うん」
アスカに言われるままに、シンジは再びアスカの指を口にくわえた。
あぁ、やっぱり気持ちいいかも。なに、この気分? シンジにもっと近づきたくなってきた。シンジにもっと触れたくなってきた。もっとシンジと。
なんだか今のアタシ、ちょっとあぶない。ダメだわ。アタシの負けね。
「シンジ、もういいわ。ありがとう」
「うん。絆創膏取ってくるね」
相変わらず赤い顔をしたままのシンジは、いそいそと廊下に出て行った。そして救急箱を手に戻ってくると、手早く絆創膏をアスカの指に巻きつける。でもまだ恥ずかしさが残っている様子で、アスカの顔を正面から見ようとしない。
そんなシンジにアスカはそっと顔を近づけた。
チュッ♪
シンジは驚いて顔を上げると、アスカの顔を見つめた。
「お礼よ。手当てしてくれたお礼」
顔を真っ赤にして顔を背けながらいつもの口調でシンジの視線に答えると、そのまますごい勢いで部屋に戻って行った。
「ただいま〜」
玄関からミサトの声が響いた。
アスカは自分の部屋で、シンジはリビングで、それぞれ安堵のため息をついていたとさ。
ホッ。
...終
あとがき
今回はちょっと妄想多めです。いかがでしたでしょうか。
先日、自分の指を包丁で切ったときに思いついた内容を書いてみました。
まあ私の怪我の場合は、家族全員無視でしたけどね。
がんばって次も書きます。
ぜひ読みにきてくださいね。